神話的時空である「何もない」空間

具志堅 要

2024年12月05日 21:59

内田樹の『図書館には人がいないほうがいい』を読んでいると、
超越的なもの、外部的なもの、未知のもの(=神)を招くためには、
その場所を空けておく必要がある
という文に出会った。

でも、超越的なもの、外部的なもの、未知のものをある場所に招来するためには、そこをそのために「空けておく」必要があることはわかってもらえると思います。天井までぎっしり家具什器(じゅうき)が詰まっていて、四六時中人が出入りしている礼拝堂が「祈り」に向かないということは誰にもわかります。
空間的に「何もない」こと、時間的に「何も起きていない」ことがある場所を「調(ととの)える」ためにも必要なんです。(26ページ)

内田樹『図書館には人がいないほうがいい』2024年、アルテスパブリッシング

これは岡本太郎(1959年来沖)やクロード・レヴィ=ストロース(1983年来沖)が久高島の御嶽(うたき)に感じたことと同じことを言っているといえる。

私を最も感動させたものは、意外にも、まったく何の実体も持っていない——といって差支えない、御嶽(うたき)だった。
御嶽——つまり神の降る聖所である。この神聖な地域は、礼拝所も建っていなければ、神体も偶像も何もない。森の中のちょっとした、何でもない空地。そこに、うっかりすると見過してしまう粗末な小さい四角の切石が置いてあるだけ。その何にもないということの素晴らしさに私は驚嘆した。

岡本太郎『沖縄文化論:忘れられた日本』(1972=1996年、中公文庫)

岡本は線香を置く切石以外に何もないという久高島の聖域の姿に深く感動する。
久高島の聖域には「神殿や造形表象がまったく存在しない」ことを
レヴィ=ストロースは観察し、
そして、「テレビや、電気調理器や、電気洗濯機がある」久高島の近代的な生活の中で
「いまだかつてないほど先史時代を身近に感じた」という体験をする。

先ほど私は、地方の祭祀について言及した。専門家たちは、これらが非常に古く、おそらく日本全土に共通していた、神道の形成に先立つ、かつての文化層に属すると信じている。これらの祭祀においてまず強く印象づけられるのは、神殿や造形表象がまったく存在しないことである。テレビや、電気調理器や、電気洗濯機があるにもかかわらず、これらの小さな森、これらの岩、これらの洞穴、これらの天然井戸、これらの泉に囲まれて、私はいまだかつてないほど先史時代を身近に感じた。琉球の人たちにとって、これらのものが唯一の、しかし多様な形をとった聖なるものの現れなのである。

クロード・レヴィ=ストロース(川田順造訳)「シナ海のヘロドトス」『月の裏側:日本文化への視覚』(2014年、中央公論新社)

岡本やレヴィ=ストロースが体験したのは、
神を迎えるための空間が「何もない」ということだった。
「何もない」ことによって、
人類社会の基底に流れる神話的時空を体験することができたのだ。
しかし「何もない」ことに意味を見出すことのできない人々は、
そこを開発し、観光客のために商品化する。
彼らは「何もない」ことの価値を理解することができないので、
躊躇うことなく「何もない」空間を破壊していく。

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