合同墓をつくる——ポストモダンにおける死の迎え方

内田樹『図書館には人がいないほうがいい』を読んでいると、合同墓をつくるという話が出てくる。
死をどう扱うのか、近代ではまともに問われることのない問題だ。
洋の東西を問わず、「死を想え」とか「成仏する」とか、死に向き合うことが重要な課題だった。近代ではそれが忘れられてしまうのだ。
合同墓をつくるという内田の行動は、近代が不問に付した死に向かうという課題に、一つの応えを提示したように思われた。

合気道とは別に寺子屋ゼミというものもしています。これは大学院の社会人ゼミの延長で、僕が退職したあとも授業をして欲しいというゼミ生たちの要望を受けて開いたものです。70畳の道場に座卓を並べて、30人くらいでゼミをしています。
そのゼミで、何年か前に、ある女性のゼミ生が「お墓について」という発表をしたんです。その方は50代の女性だったのですけど、自分は両親のお墓を守っている、両親の供養はしているし、自分もそこに入ることができるのだが、私の供養は誰がすると考えると先行きが不安になってきたという話をしたんです。
それを聴いたときに驚きました。初めてでしたから、「私の供養は誰がしてくれるのか」という文字列を耳にしたのは。お墓の問題って、ふつうは「墓じまい」とかいう先代までのお墓についてのものだと思っていたけれど、その人にとっては自分のお墓の問題だったんです。
(…)
そもそも、この年になると、だんだん死んでるわけです。目が見えないとか、歯が抜けるとか。僕はこの前、膝に人工関節入れましたから、膝はサイボーグなわけです。体のあちこちがもう部分的には死んでいる。いずれ生物学的に全部死ぬわけですけれども、その前からちょっとずつ死に始めている。そして、供養してくださる方がいる間は、「もう死んじゃったけど、まだ死にきっていない」という状態がしばらく続く。人間って、そういうものだと思うんです。生物学的な死のところにデジタルな生死の境界線があるわけじゃない。アナログにだんだん死んでいって、死にきっていない状態がしばらく続いて、ゆっくりフェイドアウトしていく。前13年、後13年合わせて26年くらいかけて人間は死んでいくのかなと、発表を聞きながらそう思いました。
その時に、「自分のお墓は誰が守ってくれるのか。誰が供養してくれるのか。心配だ」という人がいるなら、じゃあ、お墓作っちゃおうと思って、凱風館でお墓作ったんです。凱風館の門人で、子どがいない人、自分のあとを弔ってくれそうな人がいない人は、うちのお墓に入ってください、と。道場はこれからもずっと継続するはずですから、毎年ご供養してくれる人には事欠かない。これはいい考えだと思って早速友だちの釈徹宗先生のところにご相談に行って、実はこんなことを考えているのですけどとお話をしたら、なんと釈先生も同じことを考えていらした。
釈先生は池田市にある如来寺というお寺のご住職でもあるのですけれど、檀家さんたちの中には、独居で暮らしていて、もう跡取りがいないという人たちや、先祖伝来のお墓を守るだけの資力がないという人がいるそうです。そういう方たちを受け入れるために合同墓を作ろうと釈先生も考えていた。
そこで凱風館は「道縁廟」、如来寺は「法縁廟」という合同墓を作りました。如来寺の近くの山の上の、とても眺望の良いところに二つお墓を並べて建てました。そこで年に一度「お墓見」という行事をやっています。季節のよいときにみんなでお参りをして、釈先生がお経をあげて、法話をしてくださって、僕たちは焼香して、法要の後は、お墓の前にブルーシートを敷いて、座卓を並べて、シャンペンを飲んで、ご馳走を食べる。(39〜45ページ)

内田樹『図書館には人がいないほうがいい』2024年、アルテスパブリッシング


沖縄の離島や僻地では移住希望者は多いのに家を借りることがむつかしいという問題がある。過疎化で空き家は多いが位牌を残しているために賃貸に出すことがむつかしいという問題が、過疎地対策の課題の一つとなっている。新聞紙上でも同じ問題を発見することができる。

渡名喜村は2000年に、昔ながらの沖縄の風景を残しているとして、集落が国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定された。歴史を受け継ぐ特徴的な集落に、ある問題が目立つようになった。空き家問題だ。
村の調査では集落を形成する約290戸のうち50戸以上が空き家だ。6軒に1軒以上は人が住んでいないという割合だ。病気や介護で高齢者は島を去るが、家にはトートーメー(位牌)が残されているため、売却したり、人に貸したりすることをためらう家族が多いという。(琉球新報2022.2.6)

普段人は住んではいないが、トートーメー(位牌)があるため人に貸せない空き家問題は、離島や本島北部の過疎地域で共通の課題だ。「毎年100人の減少」に危機感を抱く久米島町は空き家対策に向けて、2021年5月に永代供養ができる共同墓や位牌を預かる機能を持った「久米島町納骨堂」(町比嘉)の運営を開始した。空き家対策で納骨堂を造るのは県内で初めてとなる。
現在、位牌を3年間預かる「位牌壇」の受付8件を含めて、計77件の申し込みがある。町の19年の調査で155軒の空き家が確認された。町担当者によると、利用者から「位牌を預けることができたので、空き家を人に貸せるようになる」など反応もあった。(琉球新報2022.3.5)


位牌や墓が問題になるのは、それらが個人や家族の問題に限定されてしまうためだろう。沖縄の伝統的な社会では、死の儀礼はコミュニティによって担われた。死はコミュニティという空間の中に存在していたのだ。その死が個人や家族という狭い範囲に限定されてしまうことになると、空間は消滅し、時間の問題に変換されてしまうことになる。
合同墓や共同墓は、個人や家族といった時間的な死をコミュニティという空間的なものに替え、新たなコミュニティを生きている者たちに提示するのかもしれない。
ポストモダン(脱近代)の社会では、時間軸を空間軸に変換する作業が、必要になってくると思われる。



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