マネ《草上の昼食》

具志堅 要

2017年10月14日 16:52

マネの《草上の昼食》は1863年の官展(サロン)に出品されるが落選する。
この年のサロンは落選作が多く、時の皇帝ナポレオン3世のはからいにより落選展が開かれる。
《草上の昼食》はこの落選展に出品されるのだが、この落選展でスキャンダラスな非難を受ける。
裸の女性がみだらだというのだ。


エドゥアール・マネ作《 草上の昼食》1863年、 オルセー美術館蔵

この女性がなぜスキャンダラスなまでにみだらなだと見えるのだろうか。
ミシェル・フーコーはその種明かしをする。
それは光源によるものだと。

フーコーはこの絵の光源は二つあると指摘する。
一つは奥の女性を照らすもので、上方やや左側から光が射している。
これは伝統的な照明で、奥の女性の顔と背中に光があたり、影ができる。
この光によって奥の女性は立体的に表わされる。

もう一つの光源は、前方の女性の全裸を真正面から照らし出すものだ。
この真正面からの光で全裸の女性には陰影ができず、女性の肌はエナメルのように輝く。

真正面からの光とは、鑑賞者の視線だ。
奥の女性はどこからともない光に照らし出されているので、鑑賞者はたまたま彼女の肢体を見ることになる。
だから彼女から見返される恐れはない、安全な場所にいて鑑賞しているのだといえる。

前方の女性を照らし出しているのは、鑑賞者の視線だ。
鑑賞者が見ることによって、彼女の全裸の姿は浮かび上がる。
それに気づいた彼女は顔を振り向け、鑑賞者を見る。
鑑賞者はなぜ見るのかという彼女の問いに答えなければならなくなる。

観る者が観られる者に変化することによって、全裸の女性を眺めている自分の心の中にみだらなものがあることに、鑑賞者は気づいてしまう。その気づきが、鑑賞者にスキャンダラスなまでの怒りを巻き起こしたのだといえるだろう。

フーコーは右側の男性の右手の指先が、二つの光源を指し示しているのだという。
親指は奥の女性を照らす光源、そして人差し指は前方の女性を照らし出す光源に向けられている。
つまり、この女性の全裸を照らし出しているのはお前の視線なのだ、というメッセージが発せられているのだ。

さてここで、この手の二つの指のうちの一本はこちらの方向を指し示していますが、この方向はまさしく内部の光の方向、上方から、外から差してくる光の方向にほかなりません。そしてまた、もう片方の指は外部に向けて、タブローに対して垂直な軸線の方向に折り曲げられていて、その指は画面を照らし出しているほうの光の光源を指し示しています。
ミシェル・フーコー(阿部崇訳)『マネの絵画』
 

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