ブリューゲルの最晩年の作品の中に、乞食の姿が描かれた作品が2点ある。《盲人の寓話》と《乞食たち》だ。いずれの作品も、カルヴァン派に対する風刺を描いたものだといえる。
ネーデルラントのカルヴァン派は、みずからを「ゴイセン(乞食)」と名乗っていた。実際にはカルヴァン派の主流を占めたのは、ネーデルラントの貴族たちであり、都市のブルジョワジーたちだったのだが。彼らはネーデルラントにおける富裕層であったにもかかわらず、ローマ教皇やスペイン国王に対抗して、みずからを乞食と名乗ったのである。
「盲人の寓話」は、新約聖書の中にあるイエスの言葉、「もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」(「マタイによる福音書」15章14節)からとられたものだ。
イエスは、パリサイ人が民衆を導くのなら両者ともに地獄に堕ちるだろう、と述べたのだ。
ブリューゲルもこの寓話を用いて同じことを表現したかったのかもしれない。カルヴァン派が民衆を導くのなら両者ともに地獄に堕ちるだろうと。
作品の中で、盲人たちは教会を離れていき、穴底に転落していく。
ピーテル・ブリューゲル(父)作《盲人の寓話》1568年、86×154cm、カポディモンテ国立美術館
この作品には二重の意味が込められている。一つはカルヴァン派へのメタファーだ。もう一つは、マージナルな存在である盲人(=乞食)たちのもつ聖性だ。
宗教改革の以前まで、貧乏人や悲惨な者たちは聖性を帯びる存在だった。彼らに慈善を施すことによって、救霊が保証されたからだ。貧乏人や悲惨な者たちは地上における神の代理人であり、彼らに贈与することは神に贈与することに等しかった。
神の代理人にした贈与は、神から返礼されることになる。「永遠の生」として。貧乏人や悲惨な者たちは神との贈与交換を成立させる媒体だったので、聖性を帯びていたのである。
フランスの哲学者ミシェル・フーコー(1926-1984)は、ルターやカルヴァンは救霊における慈善事業の意義を否定したと指摘している。
こうした慈善事業の激しい拒絶はルターにも認められるのであって、その宣言は新教徒の思想のなかにきわめて大きく反響したにちがいない。「いや、慈善事業は不必要である。それは、神聖さにとってまったく役立たない」。ところが、こうした拒絶がおこなわれるのは、神と救霊とのつながりにおいて慈善事業の意味が問われる場合にかぎられている。あらゆる人間の行為とおなじく、慈善事業は有限性の徴表がつけられ、堕落の烙印がおされて、その点からみて、「それは罪悪、汚れにほかならない(※カルヴァン『義認』)」。
(ミシェル・フーコー(田村俶訳)『狂気の歴史』)
ルターは慈善事業を不必要なものとし、カルヴァンは慈善事業を「罪悪、汚れにほかならない」とする。
プロテスタント側のこのような主張によって、貧乏人や悲惨な者たちは聖性を奪い取られていくことになる。
しかしブリューゲルの描いた盲人たちは、社会的弱者であるとともに聖性を帯びた者として描かれており、悲惨な者たちの聖性を認めないプロテスタント側の主張を否定するものだった。
《乞食たち》も同じようなモチーフの作品だ。この絵も二重の意味を秘めている。一つはカルヴァン派に対する風刺であり、もう一つは悲惨な者たちのもつ聖性だ。
ピーテル・ブリューゲル(父)作《乞食たち》1568年、18.5×21.5cm、ルーヴル美術館
乞食たちは、服に狐のしっぽをつけている。それが何を意味するのか、定説はない。「ゴイセン(乞食)」を名乗るカルヴァン派は、狐のようにずる賢い存在であるという意味なのかもしれない。
乞食たちは悲惨な者であるにもかかわらず、乞食たちの態度に卑屈さはない。彼らは富裕者たちを救霊する権限を持ち、富裕者たちに慈善を要求する権利を持っていたのだ。