モーアシビとは
モーアシビというのは沖縄のシマ社会における未婚の青年男女による配偶者選択の場でした。シマ社会のシマは「島」ではなく沖縄の平民層の集落をいいます。
モーアシビのモーというのは原野という意味です。人里離れた原野で催されることが多かったのでモーアシビとされています。もともとは原野ということではなく、墓地や聖域、浜辺、見晴らしの良い山頂など、いずれも異界・他界と現世の境界にあたるスピリチュアルな場で催されるものでした。
近代以前のシマ社会では、一日の仕事が終わり夕食もすますと、未婚の娘たちは気の合った者どうしが近所の富裕な家の離れや未亡人の家に集い、糸繰り作業などの夜なべ仕事をしていました。この夜なべ作業をする娘宿をヤガマヤーなどといいます。
沖縄における近代以前というのは、1903(明治36)年以前だとイメージしていいでしょう。沖縄において私的所有権の発生になった土地整理事業(1899-1903)と家父長制を確立させた明治民法が施行(1898)された時代です。
娘たちの夜なべ仕事が一段落着く頃を見計らって、未婚の若者たちが三線持参で娘宿を訪問します。そして仕事を手伝ったり邪魔したりして、歌の掛け合いが始まります。その歌の掛け合いがモーアシビと呼ばれるものです。
モーアシビの諸相
参加年齢
地域により若干の差はありますが、モーアシビに参加した年齢層はおおよそ十五、六歳から結婚するまでだったようです。結婚はだいたい二十歳前後で行なわれましたので、そのあたりが上限の年齢でした。男性は結婚しても二十五歳くらいまでは参加したようです。参加できても、二十歳を過ぎると「年寄りが来た」などとからかわれることもありました。
今の高校生から大学生くらいまでの年齢が、モーアシビの年齢層にあたります。この年齢になると家で寝ることもなく、あちらこちらと泊り歩くようになります。「若者はとにかく家では寝ない」と周囲もあきらめていたようです。
男性は天井小(ティンジョーグヮー)と呼ばれる物置や畜舎の屋根裏に作った部屋に泊まり、女性は娘宿に泊まったようです。
あしでぃいりきさや/ジャクジャクぬめぬカー/語てぃいりきさや/ジントヨーさとぅがてぃんじょぐゎ
【遊んで楽しいのは大工廻の前の井戸〔の広場〕、語りあってうれしいのはあなたの〔家の家畜小屋の〕屋根裏部屋】
(仲宗根幸市『琉球列島島うた紀行 第三集』1999年、琉球新報社)
モーアシビの時間帯
モーアシビの時間は、これも地域や季節による若干の変動はあるのですが、おおよそは、夕食後の七、八時頃から始まり、夜中の一時二時頃まで続いたようです。夏の月夜は明け方まで踊り明かすこともたびたびあったようです。
ほとんど徹夜状態のまま、娘宿などで仮眠して、昼間は元気に畑仕事をこなしたようです。モーアシビが早目に終った場合でも、モーアシビが終った後にカップルで過ごす時間も長かったようで、やはり、ほとんど仮眠程度の睡眠時間だったでしょう
舞方とトーセー
モーアシビの場所で落ち合っても、すぐ歌と踊りが始まるというわけではなく、結婚式などの祝いの席で初めに「御前風(ぐじんふう)」といわれる、荘重に踊る「かぎやで風(かじゃでぃふう)」の踊りで幕を開けるように、モーアシビにも「座開き(ざびらき)」の踊りがあったようです。それを「野御前風(もーぐじんふう)」といいます。
中部の宜野湾方面では、「舞方(めーかた)」という、空手の型で激しく踊る空手舞踊が「座開き」の踊りでした。これは、空手であたりの邪気を祓い、場を清めるという意味があったと思われます。この舞方が終わるとカチャーシーが始まり、男女思い思いに飛び出して踊ります。
複数のシマが合同でモーアシビを行なう場合、舞方に「倒せー(とーせー)」という武闘がつくこともありました。
野御前風(もーぐじんふう)
ちかいみそりめーかた/わみやうたさびら/にせがするめーかた/みぶさびけい/ヨーンナ/またん/にせがするめーかた
ハイヤ/とーせ/ハイヤー/にせがするめーかた/みぶさびけじ/ヨーンナ
シタリ/にせ/ゆーちばたんや/てぃーやちかても/もういやわしんな
【演じてください舞方を、私は歌いましょう。若者が舞う舞方は見たくてたまらない。又も、若者が舞う舞方を
(倒せ)若者が舞う舞方は見たくてたまらない。
でかした若者、よく頑張ったな。空手を演じても舞いは忘れるなよ】
(『ぎのわん:字宜野湾郷友会誌』1988年、字宜野湾郷友会)
地謡が野御前風を弾き、それに合わせて娘たちが歌い出すと、一人の若者が車座の中央に出て、空手の型などで自由に踊りました。続いて対戦をうながす歌にかわり、これと思う相手が立ちあがって舞方となり、ほどなく両者の「とーせー(トーセー)」が始まります。
トーセーでは空手や相撲などが行なわれ、トーセーが済んだ後にカチャーシーになります。芸能としての構造から見ると、綱引きなどのガーエーと同じく、仲良くなるための喧嘩ごっこだといえます。
綱引きなどでは親しいもの同士が敵味方に分かれて激しい敵意を剥き出しにし、勝負が終わると、一心同体の親しい仲を深めることになります。モーアシビもそれと同じで、トーセーでテンションを上げて、それに続くカチャーシーでのより深い一体感を高めたのだろうと思われます。
歌の掛け合い
モーアシビの場で歌われる歌は、現在のように聞き手と歌い手がいて、一方的に歌ったり、聞いたりするというようなものではなく、男女の掛け合いで歌われました。掛け合いというのは、現在のギャグのようなものです。一方がつっこむと一方がとぼける。相手の歌を受けながら、はぐらかしたり、からかったりしながら、オチをさぐっていくのです。これを男女の集団に分かれて、会話のように歌を掛け合いながら、どんどん盛り上がっていくわけです。
『ぎのわん:字宜野湾郷友会誌』にモーアシビの男女による掛け合いと思われる歌が載っています。
(男) わんやじょにたてぃてぃ/にんらりみんぞよ/うむかじやたたに/いみやんらに
【おれを門に立たせて寝られるのかい恋人よ、面影は立たないのか、夢に見ないのか】
(女) いかなうむらわん/わみぬじょにたつな/みぐてぃやぬくしぬ/くばぬしちゃに
【どんなに思っていてもうちの門に立たないで、まわって家の後ろのクバの木の下に】
(男) みぐてぃやぬくしや/しじらかさあむぬ/にわばしるあきてぃ/いりてぃたぼり
【まわって家の後ろは〔クバの木が立って〕霊力の高いところだから、庭の雨戸を開けて、入れておくれ】
(女) にわばしるあきてぃ/いりぶさあしが/むしかうやちょでに/しりらちゃすが
【庭の雨戸を開けて入れたいのだけれど、もしも〔隣の部屋の〕親兄弟に気づかれたらどうするの】
(女) まくとぅとぅじすゆみ/にんぐるるするい/まくとぅとぅじすらば/うやにしらさ
【ほんとうに妻にするの? それとも恋人にするの? ほんとうに妻にするならば親に知らせましょう】
(『ぎのわん:字宜野湾郷友会誌』)
これはスピリチュアルな問答です。男はおそらくカジマヤー(四ツ辻)から女性の家の前に来ています。カジマヤーは現世と異界・他界との境界でした。ギリシャ語に由来するトポスという概念は、濃密な意味を帯びた空間を表現しますが、カジマヤーもそのような濃密な意味を帯びた空間でした。そのようなトポスであるカジマヤーから女性に対する想いを送ったので、部屋に入れてくれと頼んでいるのです。
カジマヤにたてぃば/かじぬむぬいゆくとぅ/いったじょにまたわ/んじてぃくよや
【四ツ辻に立つと風が物言う(伝言する)から、君の家の門で待っているので、出ておいで】
(モーアシビ歌《恋語れ(クイカタレー)》より)
クバは神が降りる木です。クバの木の下にいらっしゃいというのは、俗な状態のままの男性ではなく、来訪神として、神の資格を身につけて私を訪ねてきて、という意味になります。男性はビビって、クバの木は畏れ多いから、家の裏の雨戸を開けて入れておくれと懇願します。そうすると女性は、同じ屋敷に住んでいる父親や兄弟に気づかれても大丈夫? と釘を刺します。男性が答えに窮すると、女性は「本当に妻にする気があるの? それとも恋人のまま? 本気なら親に知らせましょう」と結婚する気があるのかどうかの覚悟を決めさせます(写真は御嶽のクバの木)。
このようなモーアシビの場でパートナーが決まっていき、そこから男女によるヨバイがあり、結婚に至りました。
ヨバイというのは男性が思う人の家の前で自分の名を呼ばわることをいいます。ヨバイは夜這いという表記で猥褻のように語られることが多いのですが、本来のヨバイは女性に自己決定権がありました。女性は呼ばわる男性の名を聴いて、受け入れるかどうかを決めるのです。
「女が男に自分の名を知られる事は、結婚をすると言ふ事になる。だから、男は思ふ女の名を聞き出す事に努める。『錦木』を娘の家の門に立てた東人とは別で、娘の家のまはりを、自身名と家とを喚ばうてとほる。此が『よばひ』でもあり『名告り』でもある。女が其男に許さうと思ふと、はじめて自分の名を其男に明して聞かすのであつた。」
(折口信夫「最古日本の女性生活の根柢」『折口信夫全集 第二巻』1975年、中公文庫、154ページ)
別れ遊び
モーアシビで恋人になって、結婚することになったら、結婚式の前の夜に遊び仲間が集まって、二人を囲んで、最後のモーアシビを明け方まで続けたそうです。これを「別れ遊び(わかりあしび)」といいます。「わかりあしび」のモーアシビを思う存分遊んで夜が明けると、二人は泣きながら仲間に別れを告げました。
「▲結婚の別れ 此は処女巳に明日合卺(ごうきん)〔婚礼〕の式を挙げんとするの晩、其朋友各酒及び米を出し、此を雑炊(ぞうすい)して浜辺に持ち運び、砂上送別の宴を張り、処女は一々別を告げ、今後相不変親交之程を祈ると云ひ、其より男子の三味線と女等の俗歌と調子を合せ、節面白く唱ひ、且つ舞ひ騒ぐ。鶏鳴暁を告ぐるに及んで三々五々手を携へて寝に就く。是れ何分か婬猥しき所なきに非らざれども、又朴実濃情の愛すべき所あり。〈名護だより 明32・2・6 琉新〉」
(『名護市史・資料編2・戦前新聞集成1』1984年、名護市役所、33ページ)
沖縄のシマ社会の婚姻プロセスであったモーアシビがなぜ禁圧されていったのでしょうか?次回はその謎に迫りたいとおもいます。