シマ社会の原形の残る国頭村謝敷(後編)

シマ社会の原形の残る国頭村謝敷(後編)
集落の北端の海に突き出た岩山にフンガマという謝敷区の風葬の地がある。
写真はフンガマから降りた浜からの風景。
おそらくこの岩場全体が風葬の地だったのだろう。
そこはグソー(他界)に行くプラットホームだったのだ。
シマ社会の原形の残る国頭村謝敷(後編)
フンガマの岩山を南に下ると、浜辺に謝敷区の龍宮神の碑がある。
磯ヌ神(海の神様)が祀られており、
三月三日(サングヮチサンニチ)の浜下りでは、
全区民が浜に集まり、酒と重箱で三月三日を祝う。
シマ社会の原形の残る国頭村謝敷(後編)
浜下りを祝う板干瀬(イタビシ)の浜。
シマ社会の原形の残る国頭村謝敷(後編)
謝敷のさらに北の佐手集落の海に突き出た岩山にはサテノロ墓がある。
謝敷を管轄していたのは与那(よな)ノロだった。
与那ノロは与那・謝敷・佐手(さて)・辺野喜(べのき)・宇嘉(うか)の5部落の祭祀を管轄していた。
与那ノロの墓は佐手にある。写真の墓はサテノロ墓と記されているが、佐手にあるノロ墓という意味なのかもしれない。
『のろ調査資料』(宮城栄昌他共著)によると、「かなり前からノロも門中墓に合葬」されているとのこと。
シマ社会の原形の残る国頭村謝敷(後編)
サテノロ墓の近くに謝敷区の共同村墓(上の写真)がある。
村墓というのは集落全体の共同墓のことをいう。
1950年旧三月三日に落成したと記されている。
村墓が利用されているせいか、謝敷には家族墓や門中墓が少ない。
現在も活用されているとするならば素晴らしいことだ。
家族意識や家意識が急激に変化していく現代社会において、
死生観も含めて、貴重なモデルとなるだろう。
シマ社会の原形の残る国頭村謝敷(後編)
グソー(後生)の正月といわれる「十六日(ジュールクニチ)」はフンガマと共同村墓で行われる。
祖先供養である晴明祭(シーミー)は18世紀頃の首里士族の間で始まったもので、十六日はシーミー以前の祖先供養祭である。
村墓の前の浜で、区民全体の十六日が行われる。(完)



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