椎の実は「天賜の穀物」:幕末奄美民俗誌

椎の実は山原(やんばる)の山中にも数多く自生していたような気がする。
奄美では「天賜の穀物」として泊まりがけで山中に分け入り、椎の実採りをしたという。
採集は女性の労働力が大きかったようで、
「男子五升拾ふ時は女子八、九升も拾ひ、
男子八升拾ふ時は、女子は壱斗二、三升は拾ふ」とある。
狩猟採集時代の面影を残していたのだろうか。
椎の実で飯や粥だけではなく、味噌や焼酎、蒸し菓子までつくったようだ。
その用途は幅広い。

○椎之実(しいのみ)之事
大島は大山にして椎木(しいのき)多き故、椎の実多くなる年は莫大のものなり。島中男女精を入て、是の 椎の実を拾ひ、朝夕の飯料とす。米の飯に次(つい)で上食なりと云。蒸し或は煮て、囲炉裏(いろり)の上に上げ、又は日に干して乾かし、臼にて皮を搗砕(つきくだ)き、実を汰分(ゆりわ)けて、飯、或は粥、或は味噌(みそ)、或は焼酎(しょうちゅう)、或は蒸菓子にす。椎の実の飯は、前晩より水に漬置て焚時(たくとき)は能く煮ゆると云へり。米と交へて焚くには、椎の実より先に煮て一沸き沸上る時、米を打込(うちこみ)焚かではよからずとなり。味噌又は焼酎を煎る時、麴(こうじ)もよく立つなり。焼酎を煎(せん)するには椎の実ばかりにては、焼酎にならず。甘藷をまじへて煎ずれば椎の実一升に一沸(わかし)出ると云。此焼酎柔かにして最上なり。外に伝授の煎じ様ありと云。是は焼酎の垂(た)り別(べっし)て多く、殊に泡盛んなり。蒸菓子は餅米と半々交へて製す。至て宜し。又形菓子に製すれば、粉至極細抹(しごくさいまつ)にして、葛(くず)にて製したる菓子に似て最上なり。是は米にて製したる形菓子よりも色白く却(かえつ)て増(まさ)れるならんか。右の如く蒸し或は煮て干し付置、皮も去らずして貯ふれば、幾年を経るとも虫付く事なし。故に椎の実を多く拾ひ貯れば、凶年の用意となると云へり。然りと雖(いえど)も湯手過(ゆですぎ)て皮割る時は多年を経ずして虫付くと云。九月末方より椎の実を拾へば、多く実の生(な)るゝ年は翌年迄も拾ふ事なれども、九月より塩焚(しおたき)をし、砂糖樽(だる)の榑木(くれき)も取り、田地も打返し、十一月 より砂糖も煎ずれば島民寸暇を得ざるの時にして、霜月(しもつき)に至れば拾ふ人なしと云へり。椎の実を拾ふ事至て難儀なるものなり。大島の山巌石の坂道のみにして、夫を暁天に松明(たいまつ)を輝かし、卯(う)の刻まで に壱里余も行て、其日終日、幽谷(ゆうこく)を経 、絶壁を越え、数川を渉(わた)り、椎の実のある所を爰彼(ここか)しこと尋廻りて終日拾へば、上手は弐斗余も拾ふ。手籠(てかご)を背負て夫を入れば、漸〻(ようよう)重く、中〻難儀なるものなり。又三、四里奥山の椎を拾ふには、前日より行きて、其夜山に泊り、翌日終日拾ふて帰る。島民是を天賜の穀物なりと、苦労しても拾ふなり。椎の実を拾ふ事は、男子よりも女子よく拾ふと。男子五升拾ふ時は女子八、九升も拾ひ、男子八升拾ふ時は、女子は壱斗二、三升は拾ふとなり 。

引用は、名越左源太(國分直一・恵良宏校注)『南島雑話1』(1984年、平凡社)より
(挿絵は奄美市立奄美博物館所蔵によるもの)

椎の実は「天賜の穀物」:幕末奄美民俗誌
山中椎実を拾ふ図



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