——無縁の縁(えにし)を紡ぐ——
ヲナベの事
夜は家々所々に、女共五、六人づ集り、銘々薪(たきぎ)を持来りて囲炉裏(いろり)に火を焚(たき)て、其明りにて木綿を引き、芭蕉(ばしょう)を繋ぐ。是をオナベと云(オナペとは仕事と云事 )。其処(そこ)に亦男共三、四人、五、六人も集り来りて、三絃を鳴らし、歌を男女互に謡ひ、楽みて伽(とぎ)をするなり。又焼酎(しょうちゅう)類を持寄て、女に馳走す。女共木綿は一夜に○○(くだ)三つ宛(ずつ)引て止るとなり。五月五日、村中馬場筋掃除(そうじ)をす。其晩より晴夜なれば、女共十人、二十人宛も馬場筋広き所に、薪を持寄り集りて木綿を引き、芭蕉を繋ぐ。是をヤンメオナベ と云。是にも男女も集り、三味線歌にて伽をすること前に同じ。ヤンメオナベは庭夜仕事と云事なり。雨降りて五月五日の夜よりヤンメオナベ出来ざれば、火の燃切計(もえきるばか)りにても置初て、夫より晴夜は毎夜馬場に集りて仕事をするなり。ヤンメオナベを初むれば、家々に集りての仕事は止め、雨降ても我家にて仕事をするなり。九月九日、又馬場筋掃除をす。此夜より庭夜仕事を止めて、来年五月五日までは前に云し如く、家々に集りて夜仕事をするなり。
(名越左源太『南島雑話1』1984年、平凡社)
やがま(ヤガマ yagama)小屋
衣服はもと家々で織ったもので、部落の乙女達は夜になると一定の場所に集まって燎火の周囲で苧を績んだり紡いだり、また縫物をしたりした。乙女が集ると、従って若者も集まって来た。若者は縄を綯うたりすることもあったが、三線を弾いたり、あるいは雑談に耽ることが多かった。時には相撲を取ることもあった。しかし乙女で手業をしないで遊んでいるものは殆んどいなかった。三線を弾くとそれに合わせて謡うことはよくあったが、夜業が目的であっただけに、立って踊ることは稀であった。曲はユナビの調子に合う静かなものが選ばれた。夜の仕事はこれをユナビ(yu-nabi)と言われた。ユナビは日本語のよなべ(夜業)と同源である。
ユナビの場所は、部落有の適当な家のある所もあった。また、別に家を借りることもあったが、ユナビは普通その庭で行われた。あるいは部落の四つ辻で催されることもあった。それがどこで行われてもこれをヤガマ(ya-gama)と称するのから見ると、もと特設の建物のあるのが常例であったかもしれない。ヤガマとはヤーグヮー(屋小)の義である。
ヤガマの始まるのは田植遊び(新の三月下旬、春分の頃)の後からで、その終るのはしきよま祭(新の七月下旬、大暑の頃)の前晩までで、その間は若者からヤガマ・アタイという係員を数名立てて松明の世話などをさせた。乙女達はまた代り番で、時々にが菜の和物や里芋などを持って来て配ったりした。ヤガマ明けになると、ヤガマアタイにはヤガマの連中から花染の手拭などを謝礼に贈った。
ヤガマでは、ユナビが終ると乙女達は家に帰るのもいたが、多方は雑魚寝をした。ヤガマの風習が彼等に恋愛の機会を与えたことは事実であるが、誰れ彼れの区別なく猥(みだり)に結合することはむしろ少なかった。
(宮城真治『山原:その村と家と人と』1987年、名護市役所)
ヤガマヤー・モーアシビ
夕食をすませてから娘たちが連れ立って未亡人(ヤグサミ)の家に集まり、夜遅くまで夜なべ仕事をする習俗があった。この娘宿のことをヤガマヤーといった。そこで娘たちは話に打ち興じながら芭蕉や木綿の糸を紡いだのである。娘たちは夜のチガキで自分の衣(着物)をつくるといわれた。しかし、ヤガマヤーに寝泊りする習俗は明治中期には廃止されてしまい、八十歳以上のお年寄りでも殆ど経験していない。ヤガマヤーが禁止されたあと、ミヤラビ(女童、娘)たちは三々五々連れ立ってシマ内のアジマー(四辻)に集まって、そこで夜なべ仕事をするようになった。シマ内で広い所は四辻だからである。娘たちが夜なべを始めると、ニーセー(青年)たちも集まり、薪を燃やす役目をひきうけた。薪を集めてくるのもニーセーであった。「ニーセーヤ、サンシンカタミティ、タムンカタミティ、ピーモーサー」(青年たちは三味線をかついで、薪をかついで、火を燃やす者)であった。ニーセーが娘たちの間に割りこんで三味線をひき歌い始めると、やがて娘たちも夜なべをやめて、歌ったり踊ったりのダンス・パーティがくりひろげられることになる。
当世風にいえばファイヤー・ストーム、これもモーアシビであった。モーアシビすなわち野外のダンス・パーティは明治三十年代の風俗改良運動の主たる攻撃目標であったが、なかなか廃止されなかった。星空の美しい夜になると、夜なべ仕事もとりやめ、互いにしめし合わせて浜に直行したり、芝生の生えた台地(モー)にのぼって、グンマーイ(円坐)してダンス・パーティを開始した。シマをはなれたところでひとたびモーアシビーが始まると時がたつのも忘れ、払暁に帰宅するのが普通であった。大正の頃には字の警備団員がモーアシビの現場にふみ込んできて罰金の札を手渡したという。警備団員が来ると鳴りをひそめ、去って行くとまたモーアシビを再開するということを繰返すうちに、やがてシマから離れた山中に恰好の場所を見つけておいてモーアシビをするようになった。結局、大正年間にはどこのシマでも廃止されてしまった。
(平敷令治「今帰仁村における近代の人生儀礼」『沖縄の祭祀と信仰』1990年、第一書房)