沖縄における神女たちの権威の失墜

具志堅 要

2024年09月24日 10:01

島袋源七(1897-1953)の『山原の土俗』を読んでいると、神々に扮した神女たちの正体が明かされる話が二つほど出てくる。

一つは「神様を捕えた話」で1899年ほどの頃とされる。
もう一つは「神様を見た男の話」で1903年か1904年頃のことだ。

二 神様を捕えた話
三十年ほど前までは、大宜味村字塩屋においては、帆船を新造して、明日が進水式だという夜半に、必ず氏神の森から神鉦を鳴らしつつ数多の神々が現れ来たって、船を巡りつつ釘の打ち方の拙い所には、神杖をもって標をつけおくものだと信じられている。それで某氏がその神様の正体を見届けようと、船底に隠れて神様の出現を待っていた。
それとも知らぬ神様は神鉦を鳴らしつつ、やがて現れて来た。頭には白鉢巻を締めて後方に垂らし、白い衣裳を着た神様が神神しく数人現れて、新造の船に上ってその上を巡り、初め杖をもってあちこち突っつき廻っていたが、某氏は意を決して船に架した梯子(はしご)を除くや否や、すぐその上へ乗り上がり神々の一柱一柱に縄をかけた。
よくよく見ればこの部落の祝女や神人の仕業であったらしい。縛り上げられた神様も御気の毒だが、某氏も彼女等を気の毒と思ったかどうか。

三 神様を見た男の話
この話も二十五、六年も昔の事である。国頭村字奥間に、著者の親友のK君が二、三の友達と神鉦の鳴る日、その神様を拝見せんがため、神様の御通りになるという道の傍に隠れていたらしい。何でもその日は前述の塩屋の話のごとく新造船への御通りであったらしい。いよいよ神様の行列が近づいて来た時、いきなり彼は行列の前に立ち塞がった。そして一人一人の顔を見廻すと、その中には彼の母君も交じっていて、彼は家に帰ると、ひどく母の御目玉を頂戴したという事である。 (島袋源七『山原の土俗』1929年)

しかし国頭村辺戸(へど)の海人祭の記録を見ると、神女たちは神に等しい者であり、神の乗り移った状態の神女たちに見られたら、死ぬと恐れられる存在だった。
国頭村辺土のウンギャミ祭
その夜は人々の外出する事を禁じられている。もし外出中神人に行き逢うたなら神の祟りに会い早世するというている。故に人々は恐れて一歩も外出する者がない。
(中略)
かくして祈願の式がすむと神人は全部字内の各家を巡って祈願をする。この神人の行列に道で行き逢うと、早世すると云ってこの日は外出しない。もし不意に出逢うた時には手で顔を被いそのままそこに突っ伏さねばならぬ。
各家においてはミハナ米と御酒、馳走を盛った重箱を戸口に置き、戸一枚を立てたまま裏の部屋に隠れていなければならぬ。神人に見られたときは死ぬると云って恐れている。神人はそこにある酒、馳走、ミハナ米を持ってこの家の幸福を祈り、最後に弓をもって戸を打ちつつ「ヤークーエーアミーサジー」と唱える。ちょうどその時家長一人だけ来て神人に逢い礼拝をする。神人は口を揃えて、神のごとくよかれ健やかなれ栄えあれ、と称えつつ、家を出てまた各戸を巡り歩く。(同前)

このような神女たちに対する恐れが1900年前後の急速に消滅していったことがわかる。
この時期は土地整理事業(1899-1903)と重なる。
沖縄の常民の社会であるシマ社会では、土地整理事業以前には、多少の例外を除き、土地の私的所有権が認められていなかった。
土地はシマ社会で共同管理され、数年か数十年のスパンで割替えられるものだった。
そのようなコモンとしての土地が、突然私有地として耕作する者に与えられ、私的所有権が確立された。
その時代に神女の権威に対する恐れが消滅してしまうのである。
土地がコモンである間は、神の領域に属する神女の権威は絶大なものだった。
土地がコモンではなくなり、個人の私有物に変化することによって、宗教の権威が大きく揺らいでいくのである。

宗教戦争の渦中にあった16世紀のネーデルラント(現在のオランダ、ベルギーを含む地域)ではプロテスタントによるカトリック教会の聖画像破壊運動が熾烈を極めた。
その宗教戦争に等しいことが、おそらく1900年前後の沖縄では勃発していたのだろう。
神女たちの権威の失墜とともに、女性原理の社会から男性中心主義の社会へと
沖縄社会が急速な変貌を遂げたのだと思われる。

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