無為徒食の輩の中から、名工や詩人が輩出した

柳田國男によると、盗まれるくらいでないと豊年の喜びを充すことはできなかった。
旅人を酔い潰れさせ、乞食に有り余るほどの食べ物を与えるのでなければ
豊年祭りではなかった。
無為徒食の輩を幾人でも養っているのが金持ちの証だった。
そのような無為徒食の輩の中から、名工や詩人が輩出した。
江戸時代の農村の豊かさを僕らは再認識しなければならない。

浜で漁師が地曳網(じびきあみ)を揚げる時などには、今でも子供や老女が来て盗むのみか、事によると飛びまわる鴎(かもめ)の数が、魚の数よりも多いかと思う折もある。梨の実の出盛りに庭阪に行き、または葡萄酒(ぶどうしゅ)の仕入時にローヌの渓(たに)などをあるいて見ると、盗まれて見なければ豊年の悦喜(えつき)が、徹底せぬような顔した人がいる。極端な場合になると、旅人を捕えて酔い倒れしめざれば止(や)まず、あるいは信州などの十一月には、昔は少なくとも一人の乞食を、食責めにして殺さなければ、済まぬと考えた日さえあった。最近までも我々の間には残っていた饗宴(きょうえん)というものの基調は浪費であった。貴人長者の羨(うらや)まるる所以(ゆえん)は、土蔵の戸口に検束が緩(ゆる)くして、台所の隅には怠け者の、飯時だけ起きて来るような男が、幾人も転がっていることに過ぎなかった。黄金時代の太平と称するものも、ありようは特別の奇跡でなかった。ただこんな気楽さが趣意もなく繰返されているうちに、多勢の中から名工も詩人も出たので、結局する所は庭前の池の金魚に、竜田(たつた)だの唐錦(からにしき)だのと名を附けて、朝夕その頭数を勘定しているような世中(よのなか)になっては、もうカワセミも安閑(あんかん)として、ヒイーなどとは啼いてはいられないのである。
(柳田國男「翡翠の嘆き」『野鳥雑記』)



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