国家に対峙するムラとシマの自治

ピエール・クラストル(1934-1977)の『国家に抗する社会』(1974=1987年)で「未開社会は、首長が専制主に転化するのを許容しない」(258ページ)という表現に出会う。この言葉は、自然村としての日本のムラや沖縄におけるシマの政治体制に結びつく。

宮本常一(1907-1981)によると日本のムラで区長は権力者ではなく、ムラの寄り合いの聞き役・まとめ役だった。
村でとりきめをおこなう場合には、みんなの納得のいくまで何日でもはなしあう。はじめには一同があつまって区長からの話をきくと、それぞれの地域組でいろいろに話しあって区長のところへその結論をもっていく。もし折り合いがつかねばまた自分のグループへもどってはなしあう。用事のある者は家へかえることもある。ただ区長・総代はきき役・まとめ役としてそこにいなければならない。とにかくこうして二日も協議がつづけられている。この人たちにとっては夜もなく昼もない。ゆうべも暁方近くまではなしあっていたそうであるが、眠たくなり、いうことがなくなればかえってもいいのである。(…)気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得のいくまではなしあった。だから結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。(「対馬にて」『忘れられた日本人』岩波文庫13-16ページ)


佐喜眞興英(1893-1925)によるとシマの寄り合いでは個人の利害に関しては「激しく長く論議が続けられ」、「寄り合いで決議されたことは、よく守られた。」
島には地人寄り合い(ジンチュ、ユレー。地人会議)と云うものがあって、島の大小の公事を決議し、ある時には判決のようなものを与えた。
地人寄り合いは島のほとんど中央に立てられた村屋(島の公務所)で開かれるのが常であった。しかし夏などは屋内よりもかえって屋外の涼しい木蔭で、莚(むしろ)の上に坐りながら論談をすることが少なくはなかった。議事の方法については特別に記すべきことなく、甲論乙駁有力な輿論と見るべきものが採用された。従ってある意味においては島内の有力者の専制に終わることもあったが、事の性質上著しく個人の利害に関係し、その個人が猛烈に反対したときは激しく長く論議が続けられ、個人の利害も相当に顧みられた。
地人寄り合いで決議されたことは、よく守られた。(『シマの話』1925年刊行)


ムラでもシマでも現代の区長にあたる人は権力者ではなく、話し合いのまとめ役だった。話し合いは時には「激しく長く論議が続けられ」、「決議されたことは、よく守られた」。
区長=首長が聞き役・まとめ役であることによって、区長=首長は権力者になることはなかった。
未開社会は権力者としての首長を認めないことによって、国家が成立することを未然に防止することができた。
ムラやシマの政治機構も同じように区長=首長の一方的な権力を認めない、そのことによって国家に対峙できたのだといえる。
金武湾闘争における屋慶名(やけな)、石垣新空港問題における白保(しらほ)では、行政の操作によって二つの公民館ができ、住民が分断された。行政による分断を乗り越えたとき、二つのシマは国家と対峙する存在となった。



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