——無縁の縁(えにし)を紡ぐ——
村でとりきめをおこなう場合には、みんなの納得のいくまで何日でもはなしあう。はじめには一同があつまって区長からの話をきくと、それぞれの地域組でいろいろに話しあって区長のところへその結論をもっていく。もし折り合いがつかねばまた自分のグループへもどってはなしあう。用事のある者は家へかえることもある。ただ区長・総代はきき役・まとめ役としてそこにいなければならない。とにかくこうして二日も協議がつづけられている。この人たちにとっては夜もなく昼もない。ゆうべも暁方近くまではなしあっていたそうであるが、眠たくなり、いうことがなくなればかえってもいいのである。(…)気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得のいくまではなしあった。だから結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。(「対馬にて」『忘れられた日本人』岩波文庫13-16ページ)
島には地人寄り合い(ジンチュ、ユレー。地人会議)と云うものがあって、島の大小の公事を決議し、ある時には判決のようなものを与えた。
地人寄り合いは島のほとんど中央に立てられた村屋(島の公務所)で開かれるのが常であった。しかし夏などは屋内よりもかえって屋外の涼しい木蔭で、莚(むしろ)の上に坐りながら論談をすることが少なくはなかった。議事の方法については特別に記すべきことなく、甲論乙駁有力な輿論と見るべきものが採用された。従ってある意味においては島内の有力者の専制に終わることもあったが、事の性質上著しく個人の利害に関係し、その個人が猛烈に反対したときは激しく長く論議が続けられ、個人の利害も相当に顧みられた。
地人寄り合いで決議されたことは、よく守られた。(『シマの話』1925年刊行)