通い婚

通い婚
シマの宝さがしクラブ第8回目講座
ブックカフェ&ホールゆかるひにて
講師:具志堅 要

1.はじめに

近代以前の沖縄の民衆層における婚姻形態は、通い婚でした。これは男性が夜だけ妻のもとに通うというものです。これは終生続いたというわけではなく、子どもが二三人もできると女性の実家から独立して、夫婦で新居をもったようです。

この婚姻形態のもとでは、子どもは乳幼児の段階では母親の実家で育つことになります。子どもが二三人もできるまで通い婚が続けられるということですから、女性は、育児でもっとも手のかかる三歳児までを自分の両親と姉妹、兄弟のもとで乳幼児の育児をすることになります。

子どもは、母系の従兄弟、叔父叔母といっしょに育つことになりますので、母系親族に対して強い親和性をもつことになります。

通い婚は、モーアシビ、ヨバイというプロセスを踏んでなされる結婚で、当事者同士の合意に基づくものでした。しかし明治民法の公布(1898年)により家父長の権限が強化され、結婚の形態が当事者の合意に基づくものではなく、親決め婚に変化していきます。そして親決め婚が優勢になるにしたがって、通い婚は社会の表面から姿を消していきます。

通い婚は沖縄独自ということではなく、名称は違っても日本の民衆層にも広くみられた婚姻形態でした。結婚が嫁入りすることを意味する嫁入り婚は、武家階級を中心とした特殊な婚姻形態でした。民衆世界では、結婚と嫁入りとのあいだには相当な期間の置かれることが普通だったようです。その点においては、沖縄の民衆層とあまり変わることはなかったのです。

沖縄と日本の通い婚の違いを大雑把に見ると、沖縄では通い婚の後に妻の実家から独立して夫婦で新居を構えることが多かったのに対して、日本では嫁入りが行われます。

この違いは、家業家産の有無によるものだといえます。近代以前の沖縄の民衆社会では、家業家産という概念が成熟することはありませんでした。ですから嫁入りとか婿入りという概念が成立することはなかったのです。

日本の場合は、江戸時代後期に家業家産という概念が民衆化します。ですから通い婚の後に、家業を継ぐという嫁入りが行われるのです。

この違いを理解すると、沖縄と日本の家族イメージの違いも、ある程度把握することができるかと思われます。

今回の講座では、日本と沖縄の通い婚の比較は行ないませんが、日本と沖縄の民衆層における婚姻形態の違いは、嫁入りがあるかないかの違いだけだということを理解すると、沖縄の婚姻の分かりにくさの要因が分かるかと思われます。つまり、近代以前の婚姻は嫁入りが伴うという見方が支配的なため、嫁入りの少ない沖縄の民衆層の婚姻が、分かりづらいものとなっているのです。

2.結婚にあたる名詞がない沖縄

沖縄の言葉では、結婚にあたる適当な言葉を探し出すことはできません。ニービチという言葉はありますが、それは結婚ではなく結婚式を意味する言葉のようです。

それでは結婚することを何と表現していたのかというと、男性の場合はトゥジトゥメーユン(妻を尋ね求める)あるいはトゥジカメーユン(妻を捜し求める)、女性の場合はウトゥムチュン(夫を持つ)といいます。いずれも通い婚での男女の状態を表わす言葉です。

言葉でみると、結婚は家単位のものではなく、個人単位のものだったようです。ニービチにしても根引きが語源とされ、家単位の結婚を表わす言葉というよりも、女性が神の妻から人間の妻に変貌することを意味したようです。(言葉の関しては、特に注記することがなければ首里・那覇方言によっています)

1.1ヨバイ
沖縄における通い婚のプロセスは、モーアシビから始まります。モーアシビで相手が決まると、ヨバイが始まります。通常はウラジャ(裏座敷)が娘の部屋にあてられ、そこに男性が通ってきます。伊波普猷によると、伊江島ではウラジャではなく表座敷の一番座が娘の寝室にあてられたようです。

他の地方の農家もそうだが、伊江島でも門を入ると、右の方に一番座という出居があり、(中略)通常、二番座が主人夫婦の寝部屋、第一の裏座が長男夫婦の寝部屋、第二の裏座が次女或はその他の者の部屋といった具合になっているが、年頃の長女のある場合には、出居が彼女の寝部屋にあてられえる。これは村の二歳達が自由によばいし得る為だといわれている。こうして長女が適当な配偶を選択して嫁入してしまうと、今度は次女がそこに寝て、また同様なことが繰返される。
(伊波普猷「ヤガマとモーアシビ」1930年『をなり神の島1』)

伊波は「長女が適当な配偶を選択して嫁入」と記述していますが、これは伊波自身が那覇の士族階級の出身であり、第三高等学校(現在の京都大学)、東京帝国大学に進学したエリートだったので、民衆層の婚姻形態である通い婚は伊波の関心を引かず、そのため安易に嫁入りという表現をしてしまったのだろうと思われます。

ヨバイは男性が女性の元に通うだけではなく、逆のケースもあったようです。
ちちぬゆになりば わんしぬでぃいもり やみぬゆにならば うんじゅしぬば
【月夜になれば私を忍んでいらっしゃい。闇夜になればあなたを忍ぶわ】
(玉城鎮夫「ヤンバル今帰仁のモーアシビ」『しまうた第12号』より)訳は筆者
シヌブというのは逢引きをするという意味ですから、人目に立たない闇の夜には、女性の方から男性の家に逢引きにいくということになります。

1.2結婚
ヨバイで二人の仲が固まってくると、婚約、結納、結婚という流れになります。山原(やんばる)の言葉ではそれぞれに、クチムスビ(口結び=婚約)、サキムイ(酒盛り=結納)、クファン(結婚)といいます。クチムスビで両家の親の合意を得て、サキムイでは両家の近親による酒盛りがあり、クファンでは嫁方の家で両家の親族一同による宴会が開かれます。

クファンの後に二人は正式の夫婦として認められ、男性は恋人としてではなく、夫として女性(妻)の家に通うことになります。ニービチの儀式は結婚に不可欠なものということではなく、省略することもあったようです。

山原流の結婚式に於てはクチムスビ・サキムイ・クファン・ニービチの四式の中で最も重要なものはクファンであって、これによって真に夫婦の交わりを結ぶのである。従って嫁入の式たるニービチは、所によっては簡単にこれを行い、あるいは全く式を省略することさえある。
(宮城真治『山原:その村と家と人と』)

3.通い婚と嫁入りと――「ぬびちさぬまでぃや うとぅやあらぬ」

民衆層における結婚が通い婚から明治民法が定める嫁入り婚に変化した時代の世相を知るための貴重な資料があります。今帰仁村仲尾次(なかおし、方音ナコーシ)出身の渡名喜(となき)マツ(1889-1993)が歌っていた《ミャークニー》歌詞集です。

ミャークニーというのはナークニーのことで、モーアシビで即興的に歌われる歌謡の形態をいいます。

マツの青春時代は、民衆層の婚姻形態が大きく変化していく時代にあたっていました。彼女の詠んだ歌をみてみましょう。

一合酒むてぃん 二合酒むてぃん/ぬびちさぬまでぃや うとぅやあらぬ
【両家の酒盛りをしても、近親の酒盛りをしても、ニービチ(嫁入り)の儀式が済むまでは、〔正式の〕夫ではないんだよ】筆者訳
酒井正子「ウタと共に生きる:沖縄・本部半島の音楽文化(1)」

マツは明治民法施行時には9歳でした。マツが結婚する時代には、結婚に不可欠なものではなかった「ぬびち(ニービチ)」が、婚姻儀礼における重要な位置を占めつつあったことがわかります。

「一合酒(イチゴーザキ)」、「二合酒(ニンゴーザキ)」というのは父母近親による婚約の酒盛りを意味している言葉で、婚約や結納にあたります。 「うとぅ」というのは夫のことです。

つまりこの歌は、結納をすませても、嫁入りの儀礼を済ますまでは、正式の夫として認めることはできません、ということを歌っていることになります。

表面の意味だけを追うとあたりまえのことを歌っているようですが、この歌の背景に、通い婚という伝統的な婚姻形態があったことを考慮に入れると、明治民法施行後の婚姻制度に対する意識の大変革が歌われていることがわかります。

前述の宮城真治が、「最も重要なものはクファンであって、……嫁入の式たるニービチは、……全く式を省略することさえある」と述べているのにかかわらず、マツは、通い婚の始まりを示すクファンではなく、嫁入り婚の始まりを示すニービチによって、男性は正式な(公的な)夫になると歌っています。

このような齟齬は、明治民法の公布によって生じたものだといえます。明治民法では女性が夫の家に入る「嫁入り」をもって、婚姻が成立することになります。つまり、クファンによって結婚の成立することが、法的には認められないことになるのです。

マツの歌は、クファンによる通い婚と明治民法による家父長制との齟齬のなかで詠まれています。時代は急速に、通い婚を非合法的なものへと追い込んでいきました。「ぬびちさぬまでぃや うとぅやあらぬ」という表現には、通い婚を非合法的なものとし、結婚とは認めないという意思がみえます。

しかしこの歌がモーアシビの席上で歌われ、省略することも可能だったニービチを正式な結婚の前提として歌い上げたということは、きわどいところでモーアシビの男性たちをからかった歌だともいえるでしょう。簡単に結婚できる相手ではないのよと、マツはお高くとまって見せたのです。

4.通いの期間

通い婚における通いの期間はそれほど明確なデータがあるわけではありません。民俗調査の多くは明治民法の公布後に行われ、家父長制が法的に確立された後になされているからです。家父長制を前提とした質問をすれば、家父長制を前提とした答えが返ってくるものです。ですから家父長制以前の家族形態については、正確な数字は得にくいのです。

1959年に沖縄をフィールドした民俗学者の瀬川清子は、歴史学者の比嘉春潮から大正三、四(1914、15)年頃の通い婚の話を聞きだしています。大正三、四年というのは明治民法の公布から20年も経たない時期ですから、まだ家父長制以前の家族形態がイメージできる時期だといえます。比嘉は旧士族の出身で儒教的モラルを身につけている人ですから、民衆層における実際の通いの期間は、比嘉の談話よりは長かった可能性があります。

首里に近い越来〔ごえく〕地方でも、大正三、四年ごろまでは子が一人できるまでは嫁は必ず里方にいた。二人もめずらしくなかった。子が一人できただけで夫方に移ると、「もうゆくのか」といった。「孫一人やしなえないか」ともいって、娘のうんだ子を養うのが、親の義務だった。男――聟に責任をもたせられない、という観念があった(比嘉春潮氏)。
(瀬川清子『沖縄の婚姻』)

この比嘉の言葉に続けて、瀬川は通いの期間が「五、六年にも及ぶのが普通である」と述べています。正確な数字は採りにくいのですが、近代以前の通い婚の時期はそれくらいに設定できるものと思われます。

こういう婚姻様式の社会では、いきおい息子の婚姻――息子が他家の娘にうませた子に対しては、息子の生みの親の関心が少ないわけである。少なくとも今日の長男の子に対する親の関心にくらべると、放任の形である。わが家の息子が、どこかの家の娘に一人、二人、三人の子を産ませても向うの娘の家の親の義務と権利下にある期間は、間接の関係にある。そういう期間が五、六年にも及ぶのが普通であるとしたら、そして娘と娘がうんだ子が里方にいるとしたら、そういう家々の家族構成や生活感情は、今日の私どものものとは相当のへだたりがあるものであったことと思う。
(瀬川前掲書)

1961年に宮古諸島の池間島をフィールドした野口武徳は、二、三男の場合は通い婚の期間が十年以上に及ぶことも珍しくないと述べています。

訪妻期間は、相続や分家の問題とも相互関係を有するので一定の決まりはないが、聟の兄弟間における序列、つまり長男(跡取り)であるか否かによって若干変わってくる。池間島の相続制は長男相続を原理とするので、長男は訪妻期間が一般に短く、一ヵ月~五ヵ月くらいの間に嫁の引移りが行なわれ、二、三男の場合は10年以上にもおよび、子供が二、三人できてから、新居を作って分家を行なうという例さえめずらしくなく、一般に訪妻期間が長い。
(野口武徳『沖縄池間島民俗誌』)

5.嫁入りという言葉のない嫁入り

通い婚の期間を終えて、妻は夫といっしょに住むことになります。民俗誌では通い婚の期間を省略したり、妻と夫の同棲をそのまま嫁入りととらえて記述するなどの混乱の見られることが少なくありませんが、通いの期間が短かったり、通いの期間の終了後女性が嫁入りするというのは、財産を継承するケースだととらえたほうが良いように思われます。男性の家の財産を継承するのでない限り、女性が嫁入りする必然性は乏しいからです。

沖縄の士族階級は17世紀末に財産と祖先祭祀の祭具である位牌を父系嫡男で相続するという位牌継承慣行を採り入れますが、その士族階級においてさえ、嫁入りという言葉は言葉として成熟することはなかったようです。

それでは嫁入りのことを何といっていたのかというと、嫁入りすることや嫁がせることをヤータティユンと言っていました。直訳すると家を建てる(立てる)という意味です。今帰仁方言ではヤータティルンと言います。首里・那覇方言と同じ意味で、家を立てる・一家を構えるという意味になります。

嫁入りがなぜ、女性が家を立てるとか一家を構えるという意味になるのでしょうか。

これは嫁入りの意味することが、夫の家の財産を継ぐことではなく、女性が自分の母親とは別に、祀るべきヒヌカン(火の神)を立てたことが重要なことだったからだろうと思われます。

ヤー(家)というのはヒヌカンのことであり、ヒヌカンを新たに立てることが、嫁入りを意味することだったのです。民俗学者の仲松弥秀によると、仏壇が登場する前の家庭を守る神は「火の神のみであった」ということですから、位牌継承慣行以前の家意識はヒヌカンを中心としたものだったといえます。

火の神 ヒヌカン  台所に祀られる三個の石をよりましとする神。沖縄諸島全域および奄美諸島に分布。(中略)元来「かまど」そのものを拝したのであるが、やがてかまどをかたどった三個の石に変わる。(中略)現在では陶製の香炉を置いて火の神を象徴することが多い。沖縄諸島に仏壇が登場したのは後世のことで、それ以前、家庭を守る神は火の神のみであった。(中略)火の神を祀るのは主婦である妻や母である。したがって、その家の主婦が死んだ場合は、その主婦が祀っていた火の神を取り壊し、新しく造り替える習俗がある(中略)。火の神を造るには、親元家とは無関係にその家の主婦が中心となって造ったようだが、分家のさいに親元の火の神の灰を分けて、新しい火の神を入れるという地方もある。(中略)結婚のときに火の神を拝んだり、出産のときに赤子を火の神の前で拝ませ、鍋墨を額につける習俗がある。
(仲松弥秀「火の神」『沖縄大百科事典』)

結婚のときに男性は女性の家のヒヌカンを拝みました。そして義母となる女性に「あなたの息子にしてください」とあいさつするのです。また、生まれたての赤ん坊をヒヌカンの前で拝ませ、鍋墨を額につけたのは、そのヒヌカンに属する家族になったことを意味するものだといえます。

この儀式〔クファン〕に於ては、新婿はまず嫁方の家神たる火の神・祖神・祖霊を祀り、次に嫁の母に向ってアンマー・ヨー(母様よ)と称えて親子の縁を結び、その次に嫁の父ならびに親族に盃を差して姻戚の誼を結び、その日から嫁の許に泊るのが普通である。
(宮城真治前掲書)

嫁方の家で婿が拝む順序が「火の神・祖神・祖霊」であることに留意する必要があります。位牌よりも先にヒヌカンを拝まなければならないのです。そして妻の母親とは「親子の縁」を結ぶのですが、妻の父には姻戚の盃を差すだけとなっています。ヒヌカンとそれを祀る主婦が、家意識の中心をなすものであったことがわかります。

ヒヌカンを拝むことがヤー(家)意識のもとであるならば、女性が母親の家を出て自分のヒヌカンを立てることが、ヤータティユン(家を立てる。嫁入りする)ということになるのではないでしょうか。

6.育児から見た通い婚

通い婚の意義としては、その優れた子育て機能にあります。結婚後も五六年から十年前後女性が実家にいたということは、子育てのもっとも手のかかる時期を実家で過ごしたということになります。

そのメリットとしては、まず第一番目に、自分の生まれ育った家で子育てできるのですから、女性の情緒的安定を考えることができます。次に、母親的存在が複数になることが挙げられます。

子育てをする女性は、初めのうちは母親としての経験知が浅いのですが、経験知の深い母親的存在として自分の母親を利用することができます。そのほかに自分の姉妹たちも母親的存在として利用することができます。なぜなら姉妹たちも、子育て期間中は実家にいるからです。
また五六年から十年前後して実家を出るのですから、その頃には上の子が下の子の世話をすることができる年齢になっているはずです。つまり女性の側からすると、きわめて育児にかかる負担が少ない家族形態になっています。

子どもの側からすると、母方のいとことある一定期間同居することになります。つまり、いとこたちもきょうだい同様に育つので、多くのきょうだい的関係性の中で育つことになります。それが子どもの情緒安定に役立つだろうことは十分に推測することができます。

子どもにとっての父親的存在としては、母方の祖父が挙げられます。また母親の兄弟たちも父親的存在になります。なぜなら彼らも、自分の子どもが育つまでは、妻と同居することなく、姉妹の下にいるからです。ですから自分の姉妹の子どもたちと同居していることになるのです。つまり姉妹の子どもたちからすると父親的存在になるわけです。

この通い婚という結婚システムに「シマの宝さがしクラブ」第6回講座で触れた守姉のシステムを加味すると、沖縄の子育てシステムは、現在の育児・保育の水準からは想像できないほど充実したものであったということがいえるかと思います。

このような家族形態は、男性の側からすると、男性が移動する家族形態だということができます。子育ての中心は女性の家に軸が置かれますから、男性は妻の家と自分の実家を循環することになるのです。そして子育ての苦しい時期を過ぎると、妻と同居することになるのです。

つまり、近代的な嫁入りのように女性が親元を離れて、住居を移動して子育てをするのではなく、女性はそのままで、男性が二つの家を循環することになるのです。このような通い婚による家族形態は、家父長制社会を抑止する家族システムでもあったのです。

7.まとめに

日本の民衆層における婚姻が、通い婚の後に嫁入りがあるというものだったのに対して、沖縄の民衆層の場合には通い婚の後には夫婦で独立するというものでした。嫁入りをもって結婚と見做すという明治民法の規定は、日本と沖縄の民衆の結婚の在り方を家父長制に変える激変をもたらしました。

日本の場合には近代以前にも婚姻プロセスの中に嫁入りがあったので、通い婚を省略することで嫁入り婚につなげることができました。沖縄の場合には、嫁入りという概念自体が未熟なものでしたので、明治民法で定める家父長制に移行することは、家族・親族の在り方を真逆にするほどの激変を強いるものでした。

その結果沖縄の民衆層の家族と親族は、母系の要素が強いという基層構造をもちながらも、父系的に家族と親族が編成されているという複雑な構造を持つことになりました。

複雑な構造は無意識のうちに個人を縛り、不自由さを強いることになります。その複雑な構造は、近現代に形作られたものです。個人の自由度が高い社会を築くためには、婚姻制度はよりシンプルなものにならなければならないでしょう。

婚姻制度をシンプルなものにするためには、個人の自由度が高かった母系的な通い婚の見直しが必要とされるでしょう。そこから沖縄におけるポストモダン(脱近代)の家族の姿が垣間見えてくるのではないでしょうか。

【参考文献】
伊波普猷『をなり神の島1』(1938=1973年、平凡社)
酒井正子「ウタと共に生きる:沖縄・本部半島の音楽文化(1)」湘南国際女子短期大学紀要第 5巻(1998年)
瀬川清子『沖縄の婚姻』(1969年、岩崎美術社)
玉城鎮夫「ヤンバル今帰仁のモーアシビ」『しまうた第12号』(1992年)
仲松弥秀「火の神」『沖縄大百科事典』
野口武徳『沖縄池間島民俗誌』(1961=1972年、未来社)
宮城真治『山原:その村と家と人と』(1987年、名護市役所)



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