前回は娘宿での夜なべ作業の場で行なわれるモーアシビについて述べました。
今回は娘たちの夜なべ作業から離れた場所で行なわれるモーアシビについて述べたいと思います。
タシマ(他集落)とのモーアシビ
土地整理事業(1899-1903)によって沖縄のシマ社会に私的所有権が確立されます。そして明治民法の公布(1898)とそれに続く風俗改良運動によってモーアシビが徹底的に弾圧されていきます。1920年代に沖縄の婚姻に関する調査をした奥野彦六郎は、明治民法から始まる一連の近代化政策によってシマ社会内での厳しい統制がゆるみ、その結果、シマ社会の中だけで行なわれていたモーアシビが、タシマの者とも行なわれるようになったのだと推定しました。
歌舞そのものの抑制は容易ではなかった。内でやかましく言えば言うほど、若い者を外部の山野に押しやる結果になった。殊に急速に歌舞・統制と外郭の障壁が破壊されたところでは、それぞれ部落の境界線あたりに進出し、互いに他部落の者とも歌舞することもなり、一種新たな歌舞の風習を現出したくらいである。そこではもはや男も特別の技量と酒で他部落の歌舞仲間に加わるまでもないし、女も若者達からの制裁をおもんばかる必要がなくなった。
(奥野彦六郎(宮良高弘編)『沖縄婚姻史』1978年、国書刊行会)
シマ社会ではタシマの者とのモーアシビや結婚には罰金のようなものが課されたり、軽い制裁などが行なわれました。そのことから奥野氏はタシマとのモーアシビは新しい慣習だとみたのでしょう。
1970年代にやんばる地方をフィールドした仲西美佐子さんによると、国頭村与那(よな)、大宜味村田嘉里(たかざと)、大宜味村謝名城(じゃなぐすく)、恩納村恩納(おんな)あたりではタシマとのモーアシビが発覚すると、タシマの男性たちは女性の側のシマの男性たちに豚一頭をプレゼントするのが慣例だったようです。
近代以前のシマ社会の婚姻では、女性方の家のヒヌカン(火の神)を拝むという男性の婿入りが先に行われ、子どもが二、三人もできてから妻の実家から独立しました。仲西さんによると、タシマの女性を娶った男性は、妻方のヒヌカンを拝むというセレモニーのさいに、集落の入り口でアダンの馬に乗せられてからかわれたということです。
女性も遠征したモーアシビ
モーアシビの情景をうたった歌には、女性がタシマを訪れるものが少なくありません。
たとえば《いちゅびぐゎー節》では女性がタシマに通ったり、親をヤキモキさせた様子が歌われています。
いちゅびぐゎにふりてぃ/やまちむらかゆてぃ/かゆてぃかゆいぶさ/ニセがちゅらさ
【苺採りに夢中になって山内ムラに通って、たまらなく通いたいのよ美男子がいるから】
いじゅぬガマクグヮーや/みやらびぬかしら/うややくがらちょてぃ/うくまかゆてぃ
【伊集ムラのウェストの締まった娘は娘たちのリーダー、親をヤキモキさせながら隣の奥間ムラに通っているよ】
モーアシビ交遊圏の範囲
タシマとのモーアシビの交遊圏はおおよそ二里(八キロ)が目安とされていたようです。
ナグからやハニジ/イジャシチャや一里/マジャ、ハニクまでぃや/二里ぬちむい
【名護から羽地、伊差川までは一里、真喜屋、兼久(=稲嶺)までは二里の見積り】
(ナークニ歌謡から)
国頭村与那では大宜味村まで交遊圏であり、与那から大宜味村大宜味までは十二、三キロありますので、二里どころか三里までは交遊圏だったことがわかります。
青年男女の夜間夜外での集団交遊として、与那部落においても、モーアシビーがあり、他部落同様盛んだった。夜になると、若い男女四~五名ずつ組をつくり、浜や畑など人目のつかない場所に集まり、若者の情を温めた。当地におけるモーアシビーは浜辺、モー(森)で、大宜味、喜如嘉、謝敷、辺土名、伊地などから遊びにきた人々といっしょになり、若者達の弾く三味線やテーク(太鼓)の音に合わせて娘達が歌い、踊るものであった。……与那の娘達は伊地、謝敷、宇良の青年達が誘いに来たようである。大宜味、喜如嘉、辺土名までモーアシビーに行ったという老女もいる。逆に与那の青年は伊地、謝敷の娘達を誘ってモーアシビをした。
(琉球大学民俗研究クラブ『沖縄民俗第17号』「国頭村与那」1969年)
モーアシビの場には、女性はご飯を男性は酒などを持って参加したようです。野外のミニ宴会だったのですね。
このようにしてマーラビンサー(娘)、ファームンサー(若者)は昼は畑などで働き、夜になると女性は御飯、男性は酒などをもって山や浜などに集まって夕食後から夜明け方まで遊んだ。夜明け頃になるとイービナーギ(指輪)やギーファー(かんざし)などをかわし、次に会う日と場所を約束して家に戻るのである。家に着く頃には明け方になっているのでねむけを押して翌朝の仕事に行った。(同前)
イービナギー(指輪)は、近代以前の平民には禁じられていたようです。それからすると、タシマの人と交流するモーアシビは、近代に誕生した慣習だという可能性もあるのかもしれませんね。
四十年ほど前に今帰仁村今泊(いまどまり)のシニアの方から、モーアシビの話を聞いたことがあります。モーアシビが終わった時分は漆黒の闇で、今泊はそそり立つ福木の屋敷林が並木を作っていましたが、その福木の隙間の空から星が見え、その星を頼りに家路についたとのことでした(写真は名護市屋部の福木の屋敷林。モーアシビの青年男女は、このような福木の梢の隙間の星空を道標(みちしるべ)に家路を辿ったのでしょうね)。
さやかてぃるうちち/くふぁでぃさにむしでぃ/イェードゥマイみやらびとぅ/かたりあしば
【冴えて明るいお月様を〔県指定文化財である〕クワディーサー(モモタマナ)〔の古木〕に結びつけて、今泊の娘と仲睦まじい語り合いをしたい】
(『今泊誌』「島歌」1994年、今帰仁村字今泊公民館発行)
(続く)