慈悲を忘れた近代国家

国民国家ができる以前の16世紀、慈悲は重要な徳目だった。
裸の者には衣服を与え、飢えている者にはパンを与える、
それは当然果たすべきモラルだった。

ジョワシャン・ガスケの描くセザンヌの日常生活にもそれが現れている。
19世紀後半のフランスの日曜日の情景だ。
日曜日は、ちょっとお洒落をして、教会の本ミサに出かけて、施しをするのだった。サン=ソーヴール教会に沿って貧しい人々がずっと立ち並んで彼を待ち伏せていたが、しまいには、彼からもっと吸い上げてやろうと、家からカテドラルまで列をなすようになった。持っているものはすべてやるのだった。晩年には、彼がつねにおそれ、二歳年下なのに彼が家の「長女」と呼んでいた妹のマリー、気むずかしい、宗教心に凝り固まったあのオールド・ミスも放っておくわけにはゆかない気持ちになった。彼女は家政婦と取り決めをして、セザンヌに外出のつど五十サンチームしか持たせないように命じた。そうすると、彼は手に帽子を持って、近寄ってくる乞食に、聖フランチェスコのような礼儀正しさと寛容をこめてあやまった。そしてときには相手と二人して道の真ん中に、子供たちのわめき声に囲まれて、赤面しながらそのまま立っているのだった。(ジョワシャン・ガスケ『セザンヌ』與謝野文子訳)


国民国家成立以前にはそのようなモラルが社会福祉の役割を果たしていた。
国民国家が成立すると、そのような慈悲は国家が果たすべき当然のものであった。
ところが現代の国家は、慈悲を義務として行うことを忘れているようだ。
何か大事なことを忘れているに違いない。

慈悲を忘れた近代国家
ピーテル・ブリューゲル『七つの徳目_慈悲』1559年

慈悲を忘れた近代国家
「裸の者に衣服を与える」

慈悲を忘れた近代国家
「飢えている者にパンを与える」



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