自然な規模と限界を認識することが必要:イリイチ

コモンのことを考えているうちにイヴァン・イリイチ(1926-2002)にたどり着いた。イリイチの著作を手にするのは久しぶりだった。1980年前後の日本におけるイリイチはブームと呼べるものだった。下記のような主要著作が次々に邦訳され、貪るように読みふけった。
 『脱学校の社会』(1977年)
 『脱病院化社会――医療の限界』(1979年)
 『シャドウ・ワーク――生活のあり方を問う』(1982年)
 『ジェンダー――女と男の世界』(1984年)
久しぶりに読んだが、イリイチは古くなってはいなかった。むしろ新自由主義(ネオリベラリズム)の洪水に押し流されてしまった現代社会において、イリイチの言葉は新鮮であり、有効な武器になるように思われた。
新自由主義は暴走しブレーキの効かない資本主義の姿そのものだが、イリイチはその暴走を否定する。平和な未来のためには「自然な規模と限界を認識することが必要だ」と主張するのだ。限界を超えると、人類の奴隷化が始まる。

すぐれて現代的でしかも産業に支配されていない未来社会についての理論を定式化するには、自然な規模と限界を認識することが必要だ。この限界内でのみ機械は奴隷の代りをすることができるのだし、この限界をこえれば機械は新たな種類の奴隷制をもたらすということを、私たちは結局は認めなければならない。教育が人々を人工的環境に適応させることができるのは、この限界内だけのことにすぎない。この限界をこえれば、社会の全般的な校舎化・病棟化・獄舎化が現れる。政治が、エネルギーや情報の社会への平等な投入に関わるというよりむしろ、最大限の産業産出物の分配に関わるのが当然とされるのも、この限界内のことにすぎない。いったんこういう限界が認識されると、人々と道具と新しい共同性との間の三者関係をはっきりさせることが可能になる。現代の科学技術が管理する人々にではなく、政治的に相互に結びついた個人に仕えるような社会、それを私は〝自立共生的(コンヴィヴィアル)〟と呼びたい。(イヴァン・イリイチ『コンヴィヴィアリティのための道具』ちくま学芸文庫17ページ)



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