戦争とパラレルに歩む医療化社会

イリイチは医療を例に、現代社会における二つの分水嶺を指摘する。1913年と1955年だ。
1913年には専門的な医者から診療を受ける機会が50%を超えるようになった。
その年あたりから患者は、もちろんその時の医学によって認められた標準的な疾病のひとつにかかっている場合のことだが、医学校を卒業した医者から専門的な効果ある処置をうける機会が、50パーセントをこすようになった。それまでは、地域の病気と治療法に精通し患者から信頼されていた数多くの呪医や薬草を使う民間医が、つねに同等かあるいはそれ以上の治療効果をあげて来たのである。(イヴァン・イリイチ『コンヴィヴィアリティのための道具』ちくま学芸文庫21ページ)

1913年は第一次世界大戦開始(1914-18)の前年にあたる。国家をあげての総力戦となり、大量の死傷者が出た。医療化社会への突入と大量の死傷者はパラレルな関係にある。
第一次世界大戦は近代史で最も破壊的な戦争の1つでした。1,000万人近い兵士が戦死し、この数字はそれまでの100年間のすべての戦争における軍人の死者数を遥かに超えていました。2,100万人が戦闘で負傷したと推定されています。大量の死傷者が出た原因の1つは、機関銃や毒ガス戦のような新兵器の導入でした。(『ホロコースト百科事典』)

1955年には医療が新しい病気を生み出すようになった。
ようやく50年代の半ばになって、医療が第二の分水嶺をこえ、それ自身で新しい種類の病気をつくりだしたことが明白になったのである。
医原病(医者がひきおこした病気)のうち、まずあげねばならぬのは、自分たちは患者にすぐれた健康を与えているのだという医師のうぬぼれである。まず、社会計画立案者と医師がその犠牲となった。たちまちこの伝染性の倒錯は社会全体に拡がった。そしてこの十五年のうちに、専門家による医療は健康への主たる脅威となり、医療によってひきおこされた計りきれぬほどの被害をくいとめるために、巨額の金が費やされた。治療の費用は、病人の命を延ばす費用からするととるに足りぬものになり、プラスティックのチューブをぶらさげられ、鉄の肺にいれられ、腎臓透析装置につながれて、何か月か命を延ばす人々が増加した。新しい病気が定義づけられ、制度化された。人々を不健康な都会と不快な仕事の中で生き続けさせるための費用が急騰した。医療専門職が行使する独占が、すべての人間の生活の日常の出来事の上に、ますます広い範囲で及ぶようになった。(イリイチ同前23-24ページ)

医療の第二の分水嶺の前に朝鮮戦争(1950-53年)があった。
『希望の歴史(上下)』(2020=2021年)を著したルドガー・ブレグマンによると、第二次世界大戦までの兵士たちの発砲率は15%程度にすぎなかった。
あの夜のマキンは生きるか死ぬかという状況だったので、誰もが必死で戦ったはずだと、あなたは思うだろう。しかし、300人超の兵士の中で引き金を引いたことをマーシャルが確認できたのは、わずか36人だった。(中略)
近年、マーシャル大佐が出した結論を支持する専門家が続々と現れている。その一人が社会学者のランドル・コリンズで、彼は戦闘中の兵士の写真を何百枚も分析して、銃を発砲したのは13〜18パーセントに過ぎないと、マーシャルの見積もりと大差ない結論を出した。「最も一般的な証拠から判断して、ホッブズが考えた人間像は間違っている」と、コリンズは断言する。「人間は生来、団結するようにできており、それが暴力を振るうことを難しくしている」(『希望の歴史(上下)』)

しかし朝鮮戦争ではそれが55%にまで上昇した。ブートキャンプ(新兵の訓練プログラム)で兵士たちは人の殺し方を訓練されるようになったのだ。
アメリカ軍も「射撃率」を高めることに成功し、兵士の発砲率は朝鮮戦争では55パーセントだったが、ベトナム戦争では95パーセントに上昇した。しかしこれには代償が伴った。訓練で何百万という若い兵士を洗脳すると、彼らが心的外傷後ストレス障害(PTSD)を負って帰還するのは当然だろう。事実、ベトナム戦争後は多くの兵士がそうなった。数えきれないほどの兵士が人を殺しただけでなく、彼らの内なる何かも死んだのだ。(『希望の歴史(上下)』38-39ページ)

医療の第二の分水嶺も戦争と密接につながる分水嶺と等しい尾根を築くのだといえるだろう。



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