宮崎駿監督の『風立ちぬ』

書きっぱなしにしておくと記憶の底に沈んでしまいそうなので、改めて自分の書いたものを振り返ってみたい。一年半ほど前に書いたものだが、そのころに感じたことは、現在までそのまま続いている。

宮崎駿監督の『風立ちぬ』を見てきました。太平洋戦争について待望の映画を見れたように思います。関東大震災が発端になったこと、昭和恐慌の中で新中間層は比較的平穏な生活を送ったこと、民衆層は江戸時代にまだ腰を浸していたのに、新中間層はヨーロッパを目指し、ロマン主義を貫いていたことなど、これまで関心をもちながら総合的にまとめることがむつかしかったものが、一つの舞台で上演されました。このような重層的な視点が欲しかった。

宮崎駿は『トトロ』から『もののけ』『千と千尋』など描ける範囲が一作ごとに広がっていますが、今回も予想以上の広がりを見せてくれました。江戸とロマン主義、この二重構造から太平洋戦争を捉えることができました。すごい緊迫感で、宮崎駿の「本気」に向かい合えたような気がしました。太平洋戦争を含む第二次世界大戦は、ロマン主義とニヒリズムにあふれた世界だったのでしょうね。そのうちからニヒリズムを削ぎ落としたことによって、『生きねば』になるのです。ロマン主義を否定した反戦平和ではなく、ニヒリズムを乗り越えるための反戦平和の意志だったかなと思いました。(2013年7月23日)


新中間層とは大正時代(1912-1926年)に登場してきたサラリーマン階層のことをいう。それまでにあった自営業者や自作農などの中間層と区別して、戦前のサラリーマン階層を新中間層と呼ぶことになっている。

ミドルクラス(middle class)には適切な定義はない。日本語で訳されるときには、中産階級とも中流階級とも中間層とも訳される。恣意的に使用される言葉だ。もともとは市民階級の勃興とともに定着した言葉で、貴族でもなく下層階級でもないものを指している。つまりブルジョワやジェントルマンをイメージする言葉として使用されている。市民社会の実質的な支配階層という意味合いで用いられることが多い。

支配階層には含まれない小市民階層が登場したとき、イギリスではアッパーミドルクラスとロウアーミドルクラスという階層分離が起こり、フランスではブルジョワと区別してプチブルジョワという言葉が使用されるようになる。戦前の日本ではそのようなミドルクラスの階層分離は生じることなく、新中間層という言葉で、市民階級としてのミドルクラスを指すことになる。

新中間層は、明らかに戦後の一億総中流意識と呼ばれる中流意識とは異なる存在であった。それにもかかわらず、新中間層と一億総中流意識とは明確に区分されることなく、ミドルクラスとしてあいまいな状態に置かれていたといえる。

宮崎駿の『風立ちぬ』は、知的エリート階級としての新中間層が、戦争に果たした役割を、的確に描いたといえる。戦争における被害者として描かれることの多い新中間層を、戦争に加担した階層であることを明確に描いたのだ。ここまで描かれることによって、戦争責任論は明確化されることになる。

格差社会の進行する現代社会では、誕生しつつある、あるいはすでに誕生したアッパーミドルクラスが、どのような性質の社会階層であるのかを明確にする必要がある。おそらく戦前の新中間層の果たした役割を担うのは、現代のアッパーミドルクラスであることが予測されるからである。



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