1566年にネーデルラントでは、カルヴァン派による聖像破壊運動が起き、教会を飾った祭壇画の多くが破壊された。
ところが同じカルヴァン派が造った国であるオランダでは、17世紀に「オランダ黄金時代の絵画」と呼ばれるオランダ美術が誕生し、17世紀後半には全盛を迎える。なぜ被造物神化(偶像崇拝)を排斥したカルヴァン派の国で、オランダ美術が繁栄しえたのだろうか。
その謎を解く手がかりを与えてくれそうなのが、マックス・ヴェーバー(1864-1920)による『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1904-05)である。
ヴェーバーは、オランダで美術が栄えた要因を二つ挙げる。一つは、オランダのカルヴァン主義は厳格ではなく、ゆるかったということだ。
オランダでは、しばしば質朴の感じをあたえる、偉大なレアリズムの芸術が発達する余地があった。が、それは、この国でカルヴィニズムの神権政治的支配が短時日のうちに気魄(きはく)の抜けた国教会主義に解体し、カルヴィニズムが禁欲的感化力をいちじるしく失ってしまってからは、そうした権威主義的におこなわれる習俗統制の作用が、封建領主層や都市貴族層(一種の地代・金利生活者階層)の影響や富裕化した小市民の享楽欲に対して、いかに対抗力もたぬものになってしまったか、を示しているにすぎない。
(マックス・ウェーバー(大塚久雄訳)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)
簡単にまとめると、オランダでは「富裕化した小市民の享楽欲」に対して、カルヴァン主義による歯止めが利かなかったということだ。
ヴェーバーがあげるもう一つの要因は、オランダの画家たちが、より美しいものを描くのではなく、より醜いものを描いたということだ。人間をより醜く描くことで、カルヴァン派が嫌うところの、偶像崇拝の疑いを避けることができたということだ。
「旧約の復興」と、それから、第二イザヤおよび「詩篇」第22篇にまで遡るところの、あの芸術における反美的なキリスト教的感覚を目指す敬虔派的志向とが、醜いものをより多く芸術の対象とする傾向を助長せざるをえなかったこと、そして、そこにはピュウリタンの被造物神化への拒否も一因として作用していたこと、は容易に分かる。……レムブラントの名画「サウルとダビデ」(マウリッツ館所蔵)の前に立つ者は、ピュウリタン的感覚の強い影響力をじかに感得しえたように思うだろう。(同前)
「詩篇」第22篇の反美的な表現とは次のようなものだ(詩篇22:11-16)。
わたしを遠く離れないでください。
悩みが近づき、助ける者がないのです。
多くの雄牛はわたしを取り巻き、バシャンの強い雄牛はわたしを囲み、
かき裂き、ほえたけるししのように、わたしにむかって口を開く。
わたしは水のように注ぎ出され、わたしの骨はことごとくはずれ、
わたしの心臓は、ろうのように、胸のうちで溶けた。
わたしの力は陶器の破片のようにかわき、わたしの舌はあごにつく。
あなたはわたしを死のちりに伏させられる。
まことに、犬はわたしをめぐり、悪を行う者の群れがわたしを囲んで、
わたしの手と足を刺し貫いた。
自己の惨めさを強調することによって、カルヴァン派は信仰心を強固なものにしていった。惨めな自己を信仰心のよりどころとするならば、自己を取り巻く世界は、より醜いものでなければならなかった。表現される自己の状況が、惨めなものであればあるだけ、信仰心は深まるのだ。
カルヴァン派のもつこのような感覚に、もっとも的確に応えることができたのは、レンブラントだった。
次の絵が、ヴェーバーが言及したレンブラントの《サウルとダビデ》だ。
サウルは、旧約聖書『サムエル記』に登場する、紀元前10世紀頃のイスラエル王国最初の王だ。しかしアマレク人との戦いで「アマレク人とその属するものを一切滅ぼせ」という神の命令に従わなかったため、神の心は彼から離れた。
そして神の言葉によって、ダビデが次の王の候補者として選ばれる。ダビデは竪琴の名手としてサウルに仕えたが、サウルはダビデの人気をねたんで命を狙った。しかし、ダビデの竪琴によってサウルから悪霊が出て行った。
絵はダビデを殺そうとするサウルと、竪琴によってサウルを癒そうとするダビデが描かれている。そこには神に見放された人間の暗い情念と、神に選ばれた人間の殺意に耐えしのぶ姿が描かれている。サウルの救いようのない暗さが、ダビデ(=カルヴァン主義者)の信仰心を深くする。この救いようのない暗いドラマが、カルヴァン主義とオランダ美術の両立を可能にさせたのだといえる。

レンブラント作《サウルとダビデ》1655-60年頃、131 x 164 cm、マウリッツハイス美術館