YouTube《無縁の縁(えにし)》で1月19日にアップしたものです。
*
こんにちは、《無縁の縁(えにし)》です。
今回は「侵すべからざる 他シマの聖域」と題して、沖縄のシマ社会の聖域について考えてみたいと思います。
1969年に多良間島を訪れたエッセイストの関広延氏によると、多良間島では、隣のシマの聖域はグソーよりも怖い場所だということです。
グソーというのは仏教用語の後生(ごしょう)の訛ったもので、死後の世界のことをいいます。
『沖縄大百科事典』の「グショー」の項目では、「久高島や津堅(つけん)島では墓のある葬地一帯をグショーとか後生山と称しふだんそこへ近づくことを忌みきらっている」ということですから、沖縄のシマ社会において、グソーは顕在化した他界として畏怖されていたことがわかります。
写真は今帰仁村与那嶺の海岸です。
このように海に突き出した岩はグソーへのプラットホームになります。
この岩の手前の方に控える陸地は、葬地一帯になっています。
沖縄の他界は海の彼方にあります。ですから原初的な墓は海岸近くに造られます。
この与那嶺の海岸では、海岸近くに風葬の跡があります。風葬というのは、遺体を原野・海辺・樹上・洞窟などに置いて自然に白骨化させる葬法のことをいいます。
かつての沖縄では、海岸近くの岩穴などに白骨化した遺体が鎮座しているのを見かけることがよくありました。
おそらく海に突き出た岩山と手前の陸地は、顕在化したグソーで、シマの人たちにとっては、畏怖の対象となるところでしょう。
しかし他界へのプラットホームの多くは風光明媚なところにあります。
沖縄における他界は目に視えるものであり、例外なく美しい風景の中にあります。
その美しさが災いし、現在ではこのような葬地一帯の多くはリゾート施設によって開発されています。
話を戻しますと、隣りのシマの聖域は、そのグソーよりも恐ろしい場所でした。
多良間島には隣接する二つのシマ(集落)しかなく、しかもその二つのシマは、道一つを隔てているだけです。
それにもかかわらず、互いのシマの聖域には、足を踏み入れることができないほどの畏怖感・恐怖感が存在するのです。
四年前、多良間島で、当時小学校の教頭であった大山春翠氏に、半日、島を案内してもらった。(中略)
夜、なんとなく共同体とタブーの話となって、大山さんは薄く笑いながら、実は今日通ったのは自分の部落とその御嶽だ。多良間の人間にとってあのグソーは怖い場処だが、もっと怖いのは隣りの部落であり、隣り部落のテリトリイ(勢力圏)にある森(ヤマ)、隣り部落の御嶽だ。そういうところに佇んでいるのを見付けられた場合、なにも悪いことは していなくても、どう疑われ、どう制裁を受けても仕方ないのだ。いや、そういうことでなくても、とにかくそういう処は自分にはこわいのだといった。
(関広延『誰も書かなかった沖縄』1976=1985年、講談社文庫)
写真は1973年に栗原滋氏が撮影した伊平屋島の神人(かみんちゅ)たちの聖域での祈りの様子です。
神人というのは主にシマの宗教祭祀を司る神女のことをいいます。
近代以前のシマ社会では、祭祀に臨む神人は、神そのものと見なされていました。
聖域に対する畏怖感は、直接神と出会うことの恐怖感によるものだといえます。
1929年に刊行された島袋源七の『山原の土俗』によると、国頭村 辺戸(へど)では聖域にお籠りして神となった神女たちに出会うと「死ぬ」といって恐れられたようです。
かくして祈願の式がすむと神人は全部字内の各家を巡って祈願をする。この神人の行列に道で行き逢うと、早世すると云ってこの日は外出しない。もし不意に出逢うた時には手で顔を被いそのままそこに突っ伏さねばならぬ。
各家においてはミハナ米と御酒、馳走を盛った重箱を戸口に置き、戸一枚を立てたまま裏の部屋に隠れていなければならぬ。神人に見られたときは死ぬると云って恐れている。
(『山原の土俗』)
このような畏怖感はおそらく国頭村辺戸にとどまるものではなく、沖縄のシマ社会に共通する感覚だといえます。
日本のムラのお寺や神社では、初めての人でも安置されている仏様や神様を参拝することができます。ところが、シマの聖域で祀る神にはそれはできません。
他(タ)シマの聖域は、それこそ侵すべからざる存在なのです。
つい最近もテーマパーク建設の関係者が地元の集落の御嶽を参拝したということですが、これなどもミスマッチの一つだといえるでしょう。
今回はここまでです。
次回はポスト資本主義としてのシマの共同売店に触れます。