国頭村謝敷(じゃしき)を訪ねて

2年前に書いたエッセイ。パートナーに言われて書いたことを思い出した。
そこで外付けハードディスクのフォルダーを探していたら見つかったので、
改めて掲載します。

国頭村謝敷(じゃしき)を訪ねて

謝敷の区長をしておられる林正さんのガイドで国頭村謝敷を訪ねた(2021年9月2日)。那覇市久茂地でBOOK Cafe&hall ゆかるひを経営している屋嘉道子さんの引き合わせによるもの。

林さんは東京で生まれ育ち、退職後の2009年に妻の故郷、国頭村謝敷へ移住。12年に区長を務め、20年に2度目の区長に就任している。

謝敷は板干瀬(いたびせ。ビーチロック)を唱った琉歌で名高いムラ。

謝敷いたびしに うちゃいひく波ぬ
謝敷みやらびぬ みわれーはぐち
【謝敷の板干瀬に寄せては返す波のような
謝敷の乙女たちの目笑いと歯茎よ】

謝敷は17世帯34人(2015年国勢調査)と国頭村の20集落の中で最も人口の少ないムラだ。しかし、シマ社会の宗教的な構造は揺るぎもせずに残っていた。

謝敷は山と海の接する間(あわい)のわずかな平地に集落がある。やんばるの薪は山原船(やんばるせん)によって首里・那覇へ運ばれた。海上交通が運輸の中心を占め、石油などが出回るまでは、深い山こそが価値を生み出すエリアであったのだろう。

集落北部の見晴らし台からは、辺戸岬から伊江島までが一望できる。林さんの説明によると、北向きや南向きの離岸流が鮮やかに見えるとのこと。南向きの離岸流に乗ると一気に本部半島まで到達してしまうとのこと。海の中での高速道路にあたる。この離岸流に乗って、山原船は海上を自由に往来していたのだろうか。

山の麓にはいくつもの井泉(カー)があった。上ヌ井泉(ウイヌハー)は小川を堰き止めて造られた井戸であり、産水(ウブミジ)を汲む産井泉(ウブガー)であった。そして、正月の早朝に汲む若返りの若水(ワカミジ)を汲む井泉であった。

子どもが生まれて一週目のマンサン祝いでは、ハーワタシといって、赤ん坊の額に鍋の煤を付け、左縄を燃やして上ヌ井泉の小川を渡ったという。火の霊力と水の霊力の結合により、赤ん坊はムラの一員、つまり人間になるのである。

北隣の集落である佐手(さて)の浜前の島(現在は陸地につながっている)に謝敷のムラ墓はある。やんばるで個人墓や親族墓が出現するのは、明治以降の建造であることが多い。シマの人たちはムラ墓に葬られていたのだ。

やんばるのムラ墓の多くは現在では利用されず、宗教的な拝み墓とされているところが多いのだが、謝敷ではまだ現役として利用され、新しく改修されている。他界が家単位で分断されずに、死後もシマという一体感に包まれているのだ。

沖縄本島北部および周辺の離島では明治末から大正にかけて門中(ムンチュー)墓や家族墓が造られるようになり、今では村墓はあっても利用されず、拝み墓とされている例が多い。(平敷令治「村墓」『沖縄大百科事典下巻』)

謝敷のムラ墓のある島に与那(よな)ノロの墓がある。与那ノロは与那、謝敷、佐手、辺野喜(べのき)、宇嘉(うか)という五つのムラの祭祀を統べていた。この島はおそらく与那ノロの管轄地全域の墓地の島であったのだろう。

この墓地の島の浜辺は十六日祭をする浜辺だという。十六日祭は旧暦一月十六日に先祖を招き正月祝いをするもので、グソー(後生=他界)の正月ともいわれるものだ。

謝敷の板干瀬の浜辺の北側に、竜宮神の祠があり、そこの浜辺は三月三日の浜降りの場になっている。浜降りでは午前中に女性たちが潮水に足を浸し、午後は男性たちが宴をもつ。

三月三日は、国頭村奥間(おくま)では「未婚の男女をもつ家は酒一わかしを出し、よき配偶者が得られるよう村人に頼んだ」といい、同村浜(はま)では「婚約の成立した男女が組に酒一升宛出す」(宮城栄昌「国頭村の年中行事」『国頭村史』より)という。これからすると三月三日の浜降りは、未婚の青年男女が結ばれるという側面をもつ祭りだったのかもしれない。

謝敷のムラは、山の麓のウブガーで産湯を使い、他界への出入り口であるグソーの島のムラ墓に葬られた。そして死者とともに正月を祝う十六日祭には、その島の浜辺で死者の霊をもてなした。ムラから一歩も出ることがなくとも、人生をまっとうすることができたのである。そして誕生や死に、神社やお寺が介在することもなかった。すべてをシマの人たちだけで行うことができたのである。

ここに沖縄のシマ社会の原型の一つがあるといえるだろう。どのような小さなシマであろうと、シマだけでミクロコスモスが成立していたのである。

深い山が価値を生み出さなくなって、国頭村の各ムラは深刻な人口流出を続けている。しかしシマの持つ宗教構造が、他者に対する共感性が高いという沖縄の人たちの感受性を生み出し、シマ全体を公園のように美化するというモラルを生み出し、屋敷囲いの鬱蒼とした福木の樹蔭や石積みによって静寂と清浄の美意識を生み出すのならば、沖縄県は県を挙げてその価値の再発見に努めなければならないだろう。

世界の諸文明は聖なる場所をそれ自体価値を持つものとし、聖なるものを中心にコミュニティを築いた。沖縄は制度化された宗教を持たないため、シマ自体が聖なるものに包まれているといえる。

聖なるものはそれ自体が価値をもつ。そのような視点を持たなければ、数百年、数千年かけて構築されてきた沖縄の美は、わずかな年月で崩れ去ってしまうだろう。



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