こうの史代『この世界の片隅に』_2

鬼イチャン=お兄ちゃんの物語

民話風な語りは神話的思考だ。原子爆弾は人間の生を無意味化するが、神話的思考はそのような生の無意味化に抗議の声をあげる。主要な登場人物たちは時空を超えて自由に結び付けられ、世界に意味を見出していく。

『この世界の片隅に』は、「冬の記憶(9年1月)」、「大潮の頃(10年8月)」、「波のうさぎ(13年2月)」、「この世界の片隅に(45話)」という4部構成になっている。

「冬の記憶」では、小学生の浦野すずは広島の中心市街地で化け物にさらわれ、背負い籠に放り込まれてしまう。化け物の背負い籠の中には、未来の夫になる北条周作が先に入っていた。その化け物は、物語の終局に近い「この世界の片隅に」の第44回「人待ちの街(21年1月)」では、南方で戦死した兄だということがほのめかされる。

「大潮の頃」と「波のうさぎ」の末尾には、ウラノスゞ(浦野すず)の描く「鬼(オニ)イチャン」が連載されている。

鬼イチャンは火を吐く怪獣として登場してくる。火事を起こして焼け死んでしまい、春になると再び蘇って大きな鳥にさらわれて遠いところに行ってしまうという物語になっている。

「人待ちの街」は、戦後初めてすずが広島の実家を訪れるというストーリーで、「鬼イチャン冒険記」①②③が挿入される。

「鬼イチャン冒険記」で、鬼イチャンは、①南の海で大イカと戦い、②南の島でワニと戦い、③そのワニと結婚し、背負い籠を背負った怪物になる。物語はメデタシメデタシで結ばれ、作者名は書かれていない。

「鬼(オニ)イチャン」も「鬼イチャン冒険記」も稚拙な絵で描かれている。おそらくウラノスズゞの描く「鬼(オニ)イチャン」は小学生のすずが描いたという設定であり、「鬼イチャン冒険記」は右手を失ったすずが左手で描いたという設定なのだろう。

「鬼イチャン冒険記」の中で、鬼イチャン(兄)は、すずが小学生の時に遭遇した人さらいの化け物に変身していく。

現実の世界で兄と周作が出合うことはないが、民話風な物語の中では、化け物と人さらいにさらわれた者として二人は出会うことになる。すずのイマジネーションの中では、兄の介在によって、周作と出会うのである。

化け物はなぜ兄に変換されるのだろうか。それは南方で戦死したとされる兄の遺骨がなく、遺骨を納める白木には小石が入っていることが要因となる。死の確認ができないために、兄はどこかで生きているのではないかという思いが、すずの心の中でいつまでも残ることになる。そして生きているかもしれない兄が、すずのイマジネーションの中で、化け物として現実の広島の街に出現するのである。

国家は小石によって個別の人間の死を象徴させようとする。それは人間の個別の生と死を無意味化させるものだ。そのような死の無意味化に対して、母親は抗議の声をあげる。小石に息子の存在を代替させないのだ。

白木から小石が転がり出て、母親が別の石に取り替えるシーンである(第24回20年2月)。

すず …………………………お 鬼(おに)いちゃん…
妹  の……脳みそ……………?
母  冴(さ)えん石じゃねえ せめてこっちのツルツルのんにしとこうや
   やれやれ 寒い中呼びつけられて だいいちあの要一がそうそう死ぬもんかね
   へんな石じゃ 帰った時笑い話にもなりやせん

母親は息子の死を認めない。

「人待ちの街」では、その母親も8月6日の広島に投下された原爆で亡くなり、父親も10月に亡くなったことが妹からすずに語られる。その妹も被曝して寝たきりの状態である。その二人の会話に兄が出てくる。

すず あー 手がありゃ鬼いちゃんの冒険記でも描いてあげられるのにね。
妹  …ほうよ 鬼いちゃん…江波の家帰っとらんかねえ…………………………
    お母ちゃんも………………
すず え?
妹  …すずちゃん 
   八月六日の朝はお祭りの準備でお母ちゃんが街へおつかいに行ってね
   お父ちゃんとうちで いく日も探し回ったんじゃが見つからんままよ

死の確認のできない人たちは、残された者の心の中でいつまでも生きていて、死ぬことができない。江波(広島市中区江波)の家はすずの実家だ。その家の跡取りの兄がもし南方で生きていたら、兄の継いだ幻の江波の家に、亡くなった母も父も、そして亡くなるかもしれない妹も帰ってくることができるかもしれない。すずのその思いが、イマジネーションの中で、兄を化け物に変身させるのだろう。
(続く)


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