シマ、ウチナー、ヤマトゥ_3

3. ヤマトゥ

ネイションとしてのヤマトゥンチュ

ネイションnationという言葉は、国民、国家、民族を意味する言葉です。国民、国家、民族は別箇のことに属する概念ですが、ネイションという一つの言葉で表現されるため、様々な混乱を招くことになっています。

日本語では日本人という表現が、ネイションという言葉の混乱を表わしています。日本人と言うだけではそれが国民を表わしているのか、それとも民族を表わしているのかがわからないからです。

日本人という表現が日本という国の国民を表わすとともに日本という国の民族を表わすものならば、アイヌの人々や沖縄の人々は、日本人という国民でありながら日本人という民族ではないという、混乱が生じます。

沖縄の言葉にはそのようなネイションの混乱を避ける言葉があります。それはヤマトゥ(大和)という言葉です。ヤマトゥというのは、アイヌやウチナーンチュ(沖縄の人)とともに日本人という国民を構成する、もう一つのネイション(民族)を指す言葉です。

民族としてのネイションのエリアを指す場合にはヤマトゥと表記され、そのネイションに所属する人々は、ヤマトゥーとかヤマトゥンチュ(大和の人)などと表記されます。

なぜ標準語にはない表記で民族としてのネイションを表わすのでしょうか。それは現在の日本語の中には国民としてのネイションと民族としてのネイションを区分する表現がないからです。

日本人というネイションを、国民・民族という両義で用いるのならば、ウチナーンチュは日本人という概念から弾かれることになります。ウチナーンチュは日本人という国民であるのは間違いないのですが、日本人という民族には属さないからです。

このような日本語の欠陥を補うのが、ウチナーンチュやヤマトゥンチュという表現です。このオーラルな表現によって、ネイションという言葉のもつ混乱を避けることができます。

現在の日本語には、国民という意味ではなく、民族としてだけの意味でヤマトゥンチュを表現する言葉がないため、民族としてのネイションを表現するためには、ヤマトゥンチュという表現しかできないのです。

もし日本語で国民と民族を区分する表現が出現することがあるならば、そのときヤマトゥンチュという呼称は消滅するかもしれません。

なぜヤマトゥンチュ(大和の人)なのか

ヤマトゥというのは奈良県の古い名称です。なぜエドンチュ(江戸の人)とかチョートゥンチュ(京都の人)などと言わずに、ヤマトゥンチュなのでしょうか。

これは推測の域を出ないのですが、鉄製農機具の普及と関連する気がします。

宮古や八重山の古謡では、鉄製の斧が大和の国産、山城(京都)の国産であることが歌われます。つまり鉄製の斧が大和の国や山城の国でできたものだと歌われています。

黒島の古謡《ぱいふかふんたかユングトゥ》では次のように、大和と山城が連記されています。

やまとぅまり うぷぶーぬ(大和製の大斧を)
やしるまり はにぶーぬ(山城製の鉄斧を)

じっさいにそうであるのかどうかは別にして、鉄製の斧を称えるのに、それが大和製・山城製の機具であることを歌い上げる必要があったのでしょう。

なぜ鉄斧は大和製・山城製でなければならなかったのでしょうか。それは鉄製の農機具を扱う鍛冶職人たちが、自らの職人としての権威を京都に住む天皇や奈良の大寺院に基づくものとしたためだろうと思われます。

歴史家の網野善彦によると中世前期の職人には「広域的な遍歴を常態とするもの」がありました。

そして、こうした活動形態に即して、中世前期の「職人」を広域的な遍歴を常態とするものと、注文主の職場での仕事をもっぱらにし、比較的限られた地域で活動するものとに、一応、大きく分類することができる。(中略)商工未分離で、なお需要の少なかったこの時期には、多くの手工業者・芸能民は、自らの「芸能」そのもの、その製品を売買交易するため、五畿七道諸国を往反しなくてはならなかったのである。(網野善彦『日本中世の百姓と職能民』)

このように諸国を遍歴する職人たちは、自由に安全に旅行するために、天皇の権威を後ろ盾にしたとされています。

こうした遍歴は、単に市場での交易だけでなく、鋳物師の場合、原料鉄をもち、遍歴先で小さな作業は行なったのではないかと思われる。(中略)このように遍歴を主とする「職人」にとって、関渡津泊における津料・関料などの交通税免除は、生活そのものの要求であった。しかし、西国において、交通路に対する支配権を保持し、諸国往反の自由を保障しえたのは、中世前期には天皇であり、自ずとこうした「職人」たちは供御人(くごにん)の称号を与えられる事を求めたのである。(網野前掲書)

鋳物師などのように鉄製の農機具を扱う職人たちは、沖縄にまで遍歴したことが推測されます。そのため鉄製の農機具の価値を表現するのに、大和製・山城製という表現がなされたのだと思われます。

この大和・山城という連記から山城が脱落するとヤマトゥということになります。そして鉄製の農機具をもたらした遍歴する人々のことを、ヤマトゥンチュと呼んだのだろうと思われます。

ヤマトゥンチュには薩摩人という意味もあります。薩摩人としてのヤマトゥンチュという場合には、ヤマトゥンチュは植民地主義者という意味合いになります。

薩摩人以外のヤマトゥンチュを指す言葉としては、ウフヤマトゥンチュ(大大和の人)という表現があるようです。ウフヤマトゥ(大大和)やウフヤマトゥンチュという表現を用いる場合には、ある種の理想郷やそこから来た人々を表わしているようです。

喜捨場永珣の採録した八重山古謡の《鷲(バスィ)ユンタ》では、正月の早朝に巣立った若鷲がウフヤマトゥのシマに飛んでいく様が、次のように歌われます。

正月の早朝に、新年の朝まだき、
大日本(ウフヤマトゥ)の島に舞って行け。
浦安(ヤスラリ)の国へ飛んでゆけ。
(日本語訳は喜捨場永珣『八重山古謡(上)』による)

(完)

シマ、ウチナー、ヤマトゥ_3
日本人という国民意識が高揚し、本格的な意味で民衆化するのは明治維新から30年後の、日清(1894-95年)、日露(1904-05年)という二つの対外戦争の勝利によってだった。それまで民衆層は江戸時代と地続きの生活をし、国家と一体化した国民という意識は希薄なものだった。写真の馬丁(ばてい)たちは、まだ日本人になっていない存在だといえる。(写真は1870年、「休んでいる馬丁たち」長崎大学附属図書館蔵)

このエッセイは「シマの宝探しクラブ」の第1回目の講座として予定されている「シマ、ウチナー、ヤマトゥ」の草稿として書いたものです。
日時:7月17日(月)午後7時~9時
場所:BOOK CAFE&HALL ゆかるひ(那覇市久茂地3-4-10久茂地YAKAビル3F)
講師:具志堅 要


同じカテゴリー(エッセイ)の記事