新築祝いの宴会で見たモーアシビ (沖縄情報1997年11月号掲載)

新築祝いの宴会で見たモーアシビ

九月の末に、新築祝いに呼ばれました。妻の両親(七十代)が今帰仁村運天にUターンしたのです。大工さんたちを招いての型通りの飲食がすんだ後、運天に在住の親戚たちが三々五々お祝いに集まってきました。運天は高齢の方の多い地域です。

座開(ざびら)きの「かぎやで風」がすむと、三線弾きの男性から「今帰仁ミャークニー」が歌いだされました。「ミャークニー」というのは「宮古風な歌」という意味です。宮古風というからには、宮古の歌の影響を受けてできた歌なのでしょう。今帰仁などでは「ミャークニー」と呼ばれますが、ほかの地方では「ナークニー」とか「マークニー」などと呼ばれ、沖縄本島を代表する情歌として愛唱されています。節回しは地方や歌う人ごとに微妙にことなり、歌詞は即興を命とします。歌う人のエンターテインメントがもっとも発揮される歌だといっていいでしょう。「ナーク」も「マーク」も宮古という意味です。

この歌は、王朝時代に今帰仁の青年が首里に御殿奉公をし、そのときに宮古の人の望郷の思いを込めた切ない歌を聞いて感動し、それをシマに持ち帰ったのが始まりだといわれています。ところが、そのような伝承はあまりあてにはなりません。伝承の中で首里という地名が出てくるときには、慎重さが要求されます。すべての起源説話がそこで簡単に合理化される傾向があるからです。首里=王権の地は、説話を権威づけるのにもっとも重宝な地名だったのです。

そこでいったん首里をはずして、今帰仁と宮古を結びつける縁(えにし)を考えてみたばあい、「モーアシビ」と「海上の道」をリンクさせてみると、この二つの地域がうまく結ばれるような気がします。

「海上の道」というのは、九州と中国大陸南部を結ぶ琉球弧のことをいいます。交易のルートとしては、考古学上は、弥生時代までは遡ることができます。首里に王権が成立するはるか以前から民衆はその道を自由に往来していたのです。宮古の船もその中に当然あったことでしょう。

船乗りたちの芸能は港町ごとに伝わりました。その特徴は、「別れ」です。港町には最後に別れのシーンが待っています。そして、「自由」でした。船乗りたちは一時的にシマ社会(村落共同体)や家族の絆から解き放されていたのです。つまり、「個人」としてふるまえたわけです。「個人」というのは、現代でこそあたりまえの概念ですが、共同体の絆のなかにいた人には貴重な体験だったのです。

「個人」の「別れ」には、表現として「恋愛」がつきまといました。その「切なさ」がモーアシビの青年たちをとらえました。青年たちもこどもと大人の境界線にいて、シマ社会の中では、どちらにも属さない、例外的に「自由」な存在だったのです。

今帰仁が「ナークニー」発祥の地であるという口伝を信じるならば、以上がその発祥の理由だと思います。

その本場ものの「ミャークニー」を思いがけずに聞くことができました。静かな運天の闇の中で、しみじみとした「ミャークニー」が流れると、心地好い味わいに酔いしれてしまいます。

新築祝いの宴が中盤ごろになると、三線弾きたちは、“踊り”を誘いだします。なかなか踊り手が出ないので、男性の一人が、タオル一本と輪ゴム三本と割り箸を所望し、その材料だけで即席に人形を作りました。それを持って踊りだしたのです。足拍子は本人がとり、踊るのは人形。今までタオルだったのが、まるで人間のように表情を持ち、人間以上にうまい所作をするのですから、皆、爆笑です。本部町の方から習ったということですが、今帰仁の謝名には『操り獅子』という獅子を糸で操る芸能があります。沖縄には獅子舞いは数多いのですが、糸で獅子を操るのは、たぶんここだけです。操り人形の系譜は京太郎(チョンダラー)です。大正の頃までは、首里に京太郎という被差別芸能民がいました。かれらの芸能の出し物は、操り人形でした。人形を携えて沖縄中を巡回し、各地の芸能に大きな影響を与えています。そのかすかな記憶が本部半島に伝承されているのかなという気もしました。

その踊りが終ってからは座がくだけ、歌と踊りが続きます。女性たちの中から「ミャークニー」と同じく本場ものの「ヨーテー節」が歌いだされました。「ヨーテー節」は「西武門節」の元歌といわれるもので、羽地内海を囲む地域のモーアシビ歌です。

次に、一番高齢かと思われる女性が「紡績」時代の歌を歌いだしました。高齢にもかかわらず、高音が澄みきっています。「紡績」というのは製糸紡績工場への出稼ぎのことです。大正から昭和にかけて阪神や中京地方に、多くの沖縄の女性たちが出稼ぎに渡りました。彼女もその一員だったのです。結核で命を落とす人も多い過酷な労働条件だったようですが、その影はみじんもありません。少女時代の歌を元気いっぱいに途切れることもなく歌い続けます。

彼女の歌で宴会に魂が吹き込まれたのでしょうか、「モーアシビ」の再現のように、歌と踊りが男性対女性と掛け合わされていきました。高齢な方々の曲がった背中が美しくエレガンスに見えます。そしてかれらはまるで十七、八の青年男女のようにリズミカルに踊るのです。三線弾きは踊りの合間合間に「下千鳥(さげちじゅやー)」などのもの悲しい曲を入れて、高まったテンションをおさめたり、そうすることで宴に弾みをつけたりして、最後に、家族全員をカチャーシーへと高めていきました。

外は星が降るような深い夜です。いまは、ひっそりと暮らしているように見えるお年寄りたちは、若い頃はこんなぐあいにたっぷりと「モーアシビ」をしたんだろうなというのが実感されました。このような『遊び』の経験が、沖縄の過酷な歴史をたくましく生き抜く力になったのだろうと思われました。

群れをなして訪問し、村人に幸福を予言する「来訪神」のイメージと素朴なお年寄りたちの姿がこの晩は重なりました。かれらは新築の家を祝福し、邪気を払い清めるために訪問してきた「来訪神」の一行だったのです。
『OKINAWA JOHO』1997年11月号

新築祝いの宴会で見たモーアシビ (沖縄情報1997年11月号掲載)
トンネルを抜けると運天の集落に入る。このトンネルは沖縄最古のトンネルで、 大正13年(1924)年に、村の人々の力によって造られたものだ。トンネルを抜けるとき、数百年のタイムトリップをするような気がする。(2013年、具志堅邦子氏撮影。以下同)

新築祝いの宴会で見たモーアシビ (沖縄情報1997年11月号掲載)
集落の道は海へと続く。古くは防波堤はなく、道はそのまま砂浜に続いていた。

新築祝いの宴会で見たモーアシビ (沖縄情報1997年11月号掲載)
神道(かみみち)とされる道。まばゆい光の向こうは海だ。



同じカテゴリー(モーアシビ)の記事
通い婚
通い婚(2017-10-24 09:16)