フーコー:我らヴィクトリア朝の人間

ミシェル・フーコーは、近代市民社会が性的に抑圧された社会であるとみる見方に異を唱える。近代市民社会は、性的に抑圧された社会であるというよりも、性的に抑圧されたと語ることに、情熱を傾けた時代だというのである。

なぜ性的に抑圧されたことを、人々は情熱的に語るのだろうか。フーコーはその理由を二つあげる。一つはそれが、ブルジョワ的秩序の成立とからめて語りやすいということだ。

性の近代的抑圧についてのこの言説は、まだよく保(も)っている。おそらく保ちがいいのは、言うに易しいからである。深刻な歴史的・政治的な保証がそれを守っている。数百年にわたる大っぴらで自由な表現の後に、抑圧の時代を十七世紀に出現させることで、人はうまい具合にそれを資本主義の発展と合致させることができる。抑圧の時代はブルジョワ的秩序と一体をなすというのだ。
ミシェル・フーコー(渡辺守章訳)『性の歴史Ⅰ 知への意志』

17世紀の西ヨーロッパでは、資本主義の担い手であるブルジョワ階級が、政治的な権力を担うようになる。このようなブルジョワ的な秩序の成立と性的な抑圧が、一体のものであるという見方である。

性的に抑圧されているということを情熱的に語るもう一つの理由は、性について語るだけでブルジョワ的秩序に反抗しているという姿勢を保つことができるということだ。

しかし、性と権力の関係を抑圧の関係として語ることが我々にとってかくも好都合であるのには、おそらくもう一つの理由がある。語り手の利益とでも呼んだらよいものである。性が抑圧されているなら、すなわち禁止と存在無視と沈黙とに定められたものであるなら、ただ性について語ること、性の抑圧について語ることだけで、それがラディカルな侵犯行為の様相を帯びることになる。このような言葉を語る者は、ある点までは、権力の外に身を置くのだ。彼は法を揺るがし、多少とも未来の自由の先取りをするのだ。そこから、今日、性について語る時のあの荘重さが生じる。(ミシェル・フーコー、前掲書)

人々が情熱的に性の抑圧を語ることによって、性は言説化されていく。この言説化に留意すべきだとフーコーはいう。

考慮に入れるべきことは、人々が性について語るという事実であり、それについて語る人々であり、それについて語る場所と視点、それについて語らせ、人々の語るところを集積しかつ流布させる諸制度であり、つまるところ、性についての総体的な「言説事象」、性の「言説化」なのである。(ミシェル・フーコー、前掲書)

このような性の言説化が、性現象を科学として成立させていくことになる。つまり、情熱的に性の抑圧を語ることによって、饒舌な性科学を成立させていくことになるのだとフーコーは指摘するのである。

すなわち、十六世紀以来、性の「言説化」は、制約を蒙るどころか、反対に、いよいよ増大する扇動のメカニズムに従属していたということである。性に対して働きかける権力の技術は、厳密な選別の原則には従わず、反対に、様々の多形的(ポリモルフ)な性現象の分散と浸透の原則に従っていたこと、知への意志は、廃止してはならぬタブーを前に立ちどまりはせず、性現象の科学を成立させるのに――それは多くの誤謬があったには違いないにせよ――熱中していた、という事実である。(ミシェル・フーコー、前掲書)

フーコー:我らヴィクトリア朝の人間
ヤン・ステーン作《贅沢に注意》(1663年、105 × 145.5 cm、ウィーン美術史博物館蔵)

17世紀のオランダはプロテスタントが建国した国家であり、近代市民社会を成立させていた。そこでは禁欲的な家族の肖像画が大量に描かれた。それとともに、逸楽的な家族像も描かれた。それは「~すべからず」というモラルを図示するものだった。

上の絵は、主婦が監視の役割を怠ると家族は逸楽に流れ、家庭は崩壊するという教訓を描いたものである。この絵を眺める者は、後ろの牧師や家庭教師、母親の見えないところで若者との快楽にふける娘の、誘惑的な胸元を見つめることになる。このような挑発的な絵が、ブルジョワ家庭のリビングを飾ったのである。

ブルジョワ的なモラルのなかで、性的なことがらは饒舌に描かれ、語られたのだ。

フーコー:我らヴィクトリア朝の人間


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