パラディグマ(範列)とサンタグマ(連辞)

プッサンの作品は、どの作品においてもひとつの物語を語るのだが、それは時系列に沿ったメロディー(旋律)として語るのではなく、共時的なハーモニー(和声)として語るのだとレヴィ=ストロースはいう。

どの作品においても、プッサンはひとつの物語を語る。同時代人は、なによりプッサンが物語をより精密に描くために、多くの人物像を多様に展開するその技法を賞賛した。しかし、それはすこしも説話的というものではない。なぜなら、言語学者の言葉を借りれば、プッサンの作品の構成はパラディグマ(範列)的であって、サンタグマ(連辞)的ではないからである。(中略)プッサンはかくして画布の上に問題のすべてを取り集める。それらを時間のなかで継起する小さな事件の連続とはしない。
(クロード・レヴィ=ストロース『みる きく よむ』竹内信夫訳)

言語学の用語でパラディグマ(範列)というのは、代用に対する関係を意味する。たとえば、「叫んだ」という言葉は、表現として「死んだ」という言葉を代用することもできるし、「歌った」を代用することもできる。サンタグマ(連辞)は「男が」+「叫んだ」というように、位置づけに対する関係を意味する。パラディグマは共時的であり、音楽的にはハーモニー(和声)に対応する。サンタグマは通時的であり、音楽的にはメロディー(旋律)に対応する。

プッサンの絵画はパラディグマ的であり、描かれたひとつの物語に対する、すべてのエピソードを取り集めるのだと、レヴィ=ストロースは指摘するのだ。

パラディグマの例として、プッサンの《ビュラモスとティスベー》が挙げられている。

パラディグマ(範列)とサンタグマ(連辞)
ニコラ・プッサン作《ビュラモスとティスベー(嵐の場面)》(1651年)

レヴィ=ストロースが指摘しているのは、嵐の場面なのに、池には波ひとつ立っていないという点だ。

フランクフルトにある「ビュラモスとティスベー」(嵐の場面)に描かれる池の水面は波ひとつ立てていない、それは強風に身をよじる樹木のざわめきと相反するように見える。だが、プッサンがその画面に「それぞれに異なった天候に応じて登場人物たちを演じ分ける」さまざまな動きの人物像を配置したというのと同じように、彼は、異なった瞬間に見られる嵐のさまざまな様相――荒れ狂う嵐、一天にわかにかき曇り最初の雷鳴がまさに轟こうとする嵐の前の静けさ――をそこに取り集めるのである。(同前)

時系列の物語の展開ではなく、物語のすべてを同時に見せるのだ。このような共時的な物語の配置によって、ぼくたちは最前景に描かれた恋人たちの、思いちがいによる自殺と後追い自殺を、心ゆくまで悲しむことができるのだ。

「ビュラモスとティスベー」はオウィディウス(BC43-AD17)の『変身物語』に収録されている物語で、画面最前景に横たわる男性は自殺したビュラモスだ。ビュラモスは駆け落ちの夜、馬を襲ったライオン(画面中景)が血を滴らせて待ち合わせの場所に現われたのを見て、ティスベーがライオンに殺されたものと思いちがいして、自殺してしまう。ピュラモスの変わり果てた姿を見つけたティスベーは、後追い自殺することになる。

レヴィ=ストロースはもうひとつ例をあげて、パラディグマを説明する。

パラディグマ(範列)とサンタグマ(連辞)
ニコラ・プッサン作《ソロモンの審判》(1649年)

ルーブル美術館の「ソロモンの審判」も同じだ。歴史のどこにも、死んだ子どもが王の前に引きだされるという場面を正当化するものはない。子どもは死んだ、その点について誰も異論をさしこむことはできない、それは確定した事実だ。しかし、プッサンにとって重要なのは、たとえ同時に起きたことでなくても、その状況を示すあらゆる要素が画面上に同時に存在しているということなのだ。(中略)プッサンは悪い母親をその定義どおりに、つまり死んだ子どものほんとうの母親という定義どおりに表現しようとする。それゆえに、その母親に抱かれて、死んだ子どもはそこに描かれているのである。(同前)

プッサンにとって重要なことは、死んだ子どもの、母親のドラマを描くことだった。旧約聖書『列王記』第3章では、裁きの場に死んだ子どもは登場しない。しかし、死んだ子どもを抱えて裁きの場に登場することによって、鬼気迫る母親のドラマが描かれることになる。

サンタグマによらずにパラディグマ的に描くこと、そこに知的なブリコラージュである神話的な世界が再現されることになる。

〔ひとつの場面にはひとつの時に起こることしか描くことができないという〕時の単一性の法則が、〔プッサンの〕絵画的調和の探求に障害となることはない。(中略)そのことを画家の自由としてプッサンは要請する――自分は、「描きたいと考えていることがら、それらのことがらは現在のものとして、あるいは未来に起こるべきものとして想定することができるのだが、そこにおいて[…]許されていることを画家は十分に知って」いるからだというのだ。(同前)



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